Ep.29 日常 (quotidien)

文字数 1,852文字

 俺はニタルトと生活を共にすることにした。組織『ル・ゾォ(動物園)』から支給された家は、もともとが貧乏だった俺にとっては広すぎる、という言い訳を手土産に持って。
 だがニタルトは、この前同様、手土産を出さずとも普通に喜んでくれた。
 ニタルトは、あの時に俺が告白したとは思っていなかったらしく、こんなにも誠実なことに驚いていた。確かにフランスでは、色々な人と遊んで、比較して、それから付き合うことが多い。だが俺は、九年間も待っていたのだ。早いなんていうことはない。

 あれから十ヶ月。
 組織での地位も上がり、今では、『ル・ゾォ』の幹部としてのたしなみや、身の守り方、銃と格闘の訓練、武器や麻薬の取引方法、縄張りのパトロール、部下の扱い方、組織の運営方法なども覚えていった。担当する地区も増え、部下も十人を超えた。
 あの時の、裏寂れた貧民街に落ちていた小さな震えるヒヨコが、思えばずいぶん高くまで飛べるようになったもんだ。
 俺は、担当地区を歩けばみんなから尊敬の目で話しかけられ、ますます自信を深めていった。
 もちろん、ウォーカーとの約束も忘れてはいない。試合終盤のウォーカーの動きを頭の中で描きながら、今では、あの時のウォーカーのレベルを超えていると自負できるほどに、パルクールの腕前も上達した。
 とはいえ、今のウォーカーは、あの時よりも、もっとレベルが上がっている。『レ・ジュモン(悪魔チーム)』で一緒に仕事をしている俺にはわかる。ウォーカーは俺を倒そうと必死だ。
 今回は、もしかしたら負けるかも知れない。だが、負けてもいい。燃え尽きるほど悔いのない戦いができれば。
 こんな気持ちになるのなら、あの時に、「女を賭けて勝負」などとは言わず、ただ純粋に勝負をすればよかったな。
 俺は、隣で寝息を立てているニタルトの頭を撫でながら、そんなことを思った。

 二十歳の八月。試合までは二ヶ月を切った。体調を試合当日に万全に仕上げるためには、ちょうどいい時期だ。
 俺は、午前五時に起きてから二時間、ニタルトとパルクールの練習をするのが日課になっている。
「どうかな、仕上がりは ?」
「うん。セロより上手いパルクーラーは見たことがないわ」
「他のやつはどうでもいいんだ。ウォーカー以外は見てない。ウォーカーには勝てそうか ?」
「ウォーカーも凄いけど…、でも、きっと勝てると思うわ ! だって、あなた、最高ですもの !」
 練習が終わり、いつものように、汗で濡れた体を寄せ合って歩いている。
 いい匂いと、汗と、柔らかさと、褒め言葉の声。
 女の肉体的な全ての長所が、この時間に濃縮されている。
 安らぐ。
 この時間が一番好きだ。
 と、一本の電話が雰囲気を壊す。
 着信音を切り忘れていたか。
 スマートフォンを取り出すと、相手は「パジェス」からだった。
 パジェスだったら出なくてはなるまい。それに、声を聞くのも久しぶりだから嬉しい。
 俺は、ニタルトに言った。
「仕事の話だ」
 ニタルトは、すぐに組んでいた腕を離し、声が聞こえない場所まで離れていく。「仕事の話は家族にも内密にしなくてはいけない、という規約になっている」とニタルトに言ってから、「セロが仕事の話を始めたら、聞かないようにするのが私の仕事」とでも思っているかのように、すぐに離れていって、さらには耳まで押さえてくれる。
 俺は、ニタルトとの距離を確認した後で、スマートフォンのボタンを押した。
「セロです」
「オルカだ」
 動物名を言うということは、仕事の話だ。「飲みに行こう」というお誘いではない。だが、次の『レ・テネーブル・ド・モンマルトル(モンマルトルの闇)』の仕事まではまだ間があるはずだ。
「どうしたんですか ?」
「急遽、明日になったが、八月十日、午後三時。インターコンチネンタルホテルのサロン・ラモーで大きな会議がある。二時半に家に迎えを送る。大事な会議なんだ。いくら勤務先だからといって、ニタルトは絶対に連れてくんなよ」
 大きな会議 ?
「あ ! もしかして !! ラソンプシオン(聖母被昇天祭)の取り決めについてですか ? ニタルトも楽しみにしてるんですよ。ついてきたいって言っちゃうかもなー」
「バカ、もっと凄いことだ。楽しみにしていろ。お前の持っている一番高級なスーツを着てこい」
 パジェスは嬉しそうだ。
「はい ! わかりました !!
 なんだか分からないが、きっと良いことなのだろう。俺は、パジェスの上機嫌な声が聞けたので、朝からとても清々(すがすが)しい気分になった。 
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