Ep.17 迷い子たちの憩い亭 (Che Moi)

文字数 2,871文字

 その日は、パリに住んでいる政治家の豪邸に忍び込んだ。闇夜の中を音もなく屋敷の庭に侵入し、言われている通りの道筋を進む。壁を二、三回蹴り上がってベランダの手すりに手をかけよじ登り、ベランダのガラス扉の一部を、音のしない器具で綺麗にくり抜き、内側に手を入れて鍵を開けた。
 自分が入れる分だけ扉を開け、そっと中に入り、不用心な金庫に手をかける。金庫のダイヤル番号は事前にエリザベータから聞いている。あとは開くだけだ。
 ききききき
 ききききき
 何度かダイヤルを回すと、カチリと音がなり、扉はゆっくりと開いた。
 と、突如襲いくる疾風の獣。
 俺は間一髪で避け、そのまま窓からベランダに出た。こういう時には誰が襲いかかってきたのかを確認しようとすると、動作が止まって動きが鈍くなる。『レ・テネーブル・ド・モンマルトル(モンマルトルの闇)』では、自分が一度失敗して以降、「できるだけ相手を傷つけてはいけない」という掟(おきて)ができた。無駄な死傷者を出すと相手が引き下がれなくなるからだ。
 となれば、相手が誰であろうと、見つかった時点でただ逃げるだけだ。
 ベランダに出た俺は、一足飛びで軽々と庭に降りた。
 失敗は失敗のままで終わらせない。降りぎわに黄色い蛍光塗料のついている小さなナットを落とす。これが仲間への合図。「続行せよ」である。
 じっと庭に隠れて見張りをしていたレンドルフは、ここから俺と代わって盗みに入る。俺は、追いかけてくる男を、いい感じで引っ張りながら逃げる、という寸法だ。
 おや ?
 俺は、ここで違和感を感じた。いつもなら、ついてこられない相手をうまく待ちながら逃げていくのに、相手はなんなく俺の後をついてくる。難しいムーブを使用して、追跡しづらい屋根の上に登ったが、相手も淀みなくついてくる。
 なんだ ?
 俺は全力で逃げた。
 が、相手も迫(せま)ってくる。
 初めて出会う、自分よりも速いかもしれない相手。
 跳ねる足音だけが徐々に迫ってくる。
 相手の呼吸音すら聞こえるほど近づいた時、追跡者は叫んだ。
「待ってくれ ! レ・テネーブル・ド・モンマルトル(モンマルトルの闇)の人か ?」
 ん ? この声 ?
 どこかで聞いたことのある声だ。
「俺はあんたらを尊敬している。闇に入れてくれ !」
 この男…。
 逃げることに精一杯だった脳みそを少し落ち着かせようとした時、タイミングよく逃走経路の罠の一つにたどり着いた。
 どす。
 腹を打ったのか、背中を打ったのか。鈍い音がして、追跡者がうめき声一つあげずに倒れる姿が目の端に映った。
「危なかったな、コック(ニワトリ)」
 家の陰から出てきたのはパジェスだ。俺は逃げながら、パジェスの隠れている場所に誘い込んでいたのだ。
「はい。この男、めちゃくちゃ速かったんで驚きましたよ」
 俺は、長い手足を丸めこんで倒れている男を見た。
「ポンテール・ノワール(パンサー)…」
 覆面をかぶり、全身黒い服を着ているので、ウォーカーに俺たちのことはバレていないだろう。だが、作戦を立案したパジェスは、最初から、盗みに入る家がウォーカーの家だ、ということがわかっていたのだろうか。
 俺は、パジェスと目を合わせようとしたが、パジェスは、倒れているパジャマ姿のウォーカーをじっと見つめていた。
「お前がポンテーに見つかるとは思わなかった。し、追いつかれるとも思わなかった」
 あたりは、時間が止まったように静かだった。
「それにポンテーが、『闇』に入りたいと願っていたこともな」
 静かな空間に、パジェスの独り言のようなつぶやきは、破(わ)れ鐘のように響いた。パジェスの携帯電話のバイブ音が鳴り続け、俺は、小雨が頭に当たる感触をただただ確かめ続けていた。

 数日後、パジェスに呼び出された俺は、アジトの一つである『シェ・モア(迷い子たちの憩い亭)』にいた。二人の他には誰もいない。カウンターでラフロイグ(スコッチウイスキー)を飲みながら、パジェスはゆっくりと、重いグラスに入った氷をかき回す。
「コック。パンテール・ノワールのこと、どう思う」
「いいと…思います」
 俺はあれから、じっくりと考えていた。『ラ・リュミエール・ド・モンマルトル(モンマルトルの光)』でパルクールの練習をしている時も、ウォーカーは一度も『レ・テネーブル・ド・モンマルトル』について語らず、いつも通りの無口だった。
 そんなウォーカーが、あんなにも情熱的に、『レ・テネーブル・ド・モンマルトル』に入りたいと思っていただなんて。本人を目の前にしてでさえ信じられなかった。
 いったい、どのような家庭の事情があるというのだろう。裕福な家に生まれ育っているのに、俺たちのような貧民とも関わりを持ち、ついには『闇』にまで触れたいとは。
 だが、俺は、あの時の、ウォーカーの一言が忘れられなかった。
「闇に入れてくれ」
 ウォーカーの、あのような心の叫びは聞いたことがない。今まで一緒に生きてきた自分からしてみれば、あの一言だけでも、信用するに値する。
 ただひとつだけ。
 俺は、自分の気持ちを隠しきれなかった。
 俺はどうしても、いや、これは形にして分かりたくはないことだけれども、弟のような存在として、良きライバルとして、愛してはいる。
 けれどもウォーカーに対して、どうしても嫉妬をしてしまっているんだ。身長と、直線距離の速さと、そして、ニタルトのように黒人特有のしなやかな身体の作りに。そしてパルクールだけでなく、恋愛のライバルとして。ニタルトと同じ黒人で、お金持ちの家に生まれていて、犯罪にも手を染めておらず、戸籍だってしっかりと持っているだろう。
 誰にも、本当は自分にもバレたくはないことだけれども、俺は、どうしても、この嫉妬がぬぐいきれないんだ。
 『闇』は俺の中で唯一の誇れる場所だ。ウォーカーと争わなくてもいい、俺だけの居場所だ。
 本心を言うと、俺はできれば、ウォーカーの願いを拒絶して欲しかった。もし、ウォーカーが闇に入ってしまったら、自分より高く空を飛ぶことができてしまうかもしれない。
 そんなのは嫌だ。俺は誰よりも高く空を飛びたいんだ。少なくとも、ライバルのウォーカーには抜かされたくないんだ。
 だが、その思いをパジェスに吐露してしまえば、その時点で、自分が負け犬になるような気がした。
「でもパジェス。彼は金持ちだ。犯罪の道に足を踏み入れさせるのは、あまりにも不憫でしょう」
 この、半分だけ本心が混ざっている一言を口にして、暗に拒否を促そうとも考えたが、どうしてもウォーカーが怖くて逃げているように感じてしまう。
 結果出した答えがこれ。
「いいと…思います」
 俺は問題ないと思いますが、パジェスさんはどうなんです ? というニュアンス。
 つまり、最終的には、いつものように自分で決断ができず、パジェスに全ての決断を委ねる、という選択肢を選んだ。
 俺は成長しているようでいて、全く成長できていない。
 パジェスは、「うん」と一つうなづき、臭い匂いのするウォッカを一息で口に流し込んだ。
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