Ep.37 マルネラ・ドラコフスキー (M.D.)

文字数 2,512文字

 エレベーターホールはちょっとしたレストラン程度の広間になっており、誰もいない。非常階段用の扉と、真正面に大きな扉。それだけだ。
 俺たちはエレベーターから降り、ウンバロールを中心として警備体制を整えた。

 と、大扉の横にある壁が開いた。隠し扉になっているようだ。
 ガードマンらしき二人の巨漢が出てくる。金髪碧眼。ロシア人だ。
「マルドラがお待ちです。粗相のないように」
 ロシア語で言われた言葉をベリエ(雄羊)が訳す。ウンバロールは無言で軽く笑みを返した。
「ランキング九十三位、『ル・ゾォ』のボス、シャモー(ラクダ)が参りました !」
 ガードマンたちは大声を上げた後、大扉の左右に分かれ、ゆっくりと扉を開く。
 開かれた部屋は、ビルのワンフロアを丸々とぶち抜いており、窓がない。壁中に、一目見て高価だとわかるような彫刻や絵画が並んでいる。部屋の入口から赤いカーペットが続いており、先には巨大な玉座がある。
 これだけ豪華な玉座があるということは、マルネラ・ドラコフスキーが玉座に座り、ドラコフスキーの部下たちがカーペットの左右にビッシリと立ち並び、俺たちはその間を進んで行くのだろうか。
 だが、ドラコフスキーは玉座にいない。それどころか、二人のガードマン以外は、ただ一人、ジャージを着たハゲ男が、壁にかけられた絵画を眺めているだけだ。
「ムッシュー・ドラコフスキー」
 ウンバロールは男に声をかけ、近づいていった。どうやら彼がドラコフスキーらしい。初めてウンバロールに会った時も思ったが、大物は高価な服で着飾ったり、偉そうに見せたりはしないのだろうか。
 だが、ドラコフスキーらしき男はウンバロールを無視し、まだ熱心に絵画を眺めている。
 人を馬鹿にするにも程がある。しかも相手はウンバロールだぞ。
 俺は怒りで拳を握りしめた。パジェスは左右を見回し、二人のガードマン以外は誰もいないことを確認すると、背中からも分かるほどの殺気をにじませた。
 えっ ? まさか、マルドラを殺(や)る気か ?
 俺とは比べ物にならないほど、パジェスは屈辱(くつじょく)に震えている。俺はパジェスの殺気を感じ、戦慄(せんりつ)を覚えた。
 もし、このジャージを着た男がドラコフスキーだというのならば、今すぐこの場で彼を殺し、フロアを占領して立て篭もり、その間にフランスにいる『ルゾォ(動物園)』本隊を全員招集すれば、一日にして『ドーラ会』を牛耳(ぎゅうじ)れるかもしれない。俺はパジェスの姿を見て、初めてそんな考えを思いついたが、パジェスはあらかじめ可能性の一つとして考えていたのかもしれない。それくらいの大きな博打をする男だ。
 絶対にありえないような妄想。だが、俺がついそのように妄想してしまうほど、警備が緩い。
 ウンバロールは俺とパジェスの殺気に気づき、振り向いて、軽く右手で「落ち着け」と命じた。
 パジェスの殺気がおさまる。俺の緊張も解ける。俺達はウンバロールの後を、少し距離を取りながら男に歩み寄っていった。
 一歩。
 二歩。
 ん ?
 結構近いのかと思っていたドラコフスキーとの距離は、思ったよりも遠かった。
 というのも、このドラコフスキー、大きさが尋常ではない。スタイルがいいので分からなかったが、近寄ると二メートルをゆうに超えている。軽く脂肪が乗っているものの、筋肉隆々だ。体温で湯気が出ているところを見ると、体重も二百キロを超えているかもしれない。まるで大型の獣だ。話では七十歳を超えているということだが、とてもそうは見えない。俺にとって神様のように見えていたウンバロールが、ふた回りほど小さく感じられる。
 ドラコフスキーはウンバロールに気がつくと、気づかなくて申し訳ないという顔でメガネをかけた。口には黒いマスクをしている。
「やあ。君がウンバロール君か。待っていたよ」
 明るく、情熱的な喋り方。ロシア人なのにフランス語。流暢(りゅうちょう)だ。ドラコフスキーはウンバロールの両脇に手を入れ、軽々と持ち上げた。
「うん。いい。素晴らしい。芸術的だ」
 パジェスはドラコフスキーに掴みかかろうとしたが、ウンバロールが目で制した。
「モンマルトルで『裏』と『表』の二つのコブを使い分け、シャモー(フタコブラクダ)の異名でパリのみならず、今やフランスで一番のマフィア組織として名を上げている。一代でここまでのし上がるとはたいしたものだ。うん」
 ウンバロールはジロジロと見られた後で降ろされた。ドラコフスキーは、そのまま俺たちに近づいてくる。
「そして君たちが、『裏』と『表』の中心人物だね。パルクールではトップクラスの実力がありながら、あくまでシャモーの裏方に徹している天才児。オルク(シャチ)のパジェス君。そして、パジェス君に見出され、去年のパルクール世界大会で一位に輝いたコック(ニワトリ)のセロ君。お。そういえば、最近コカドリーユ(コカトリス)に変わったんだっけ。おめでとう。やや。今年の世界大会で優勝したパンテール・ノワールのウォーカー君はいないんだね。会いたかったのに」
「彼はフランスにいます」
「残念。でも他にも、一番の武闘派である暴力リオン(ライオン)のライオット君。かつてシャモーが銃撃された時に、身を挺して代わりに銃撃を食らったウルスポレール(シロクマ)のリンゼイ君。それから…」
 元々動物の名前がついている理由は、本名がバレることで危険になる可能性を減らすためだ。だが、世界一の泥棒組織の情報力の前では、全ては筒抜けのようだ。幹部一人一人を興味深く見下ろしながら話しかけていくドラコフスキーは、まるで「人」という名の芸術作品を鑑賞しているようだった。
 俺は、自分の中身を全て見透かされているような気がして寒気がした。組織の他のメンバーも、すっかり毒を抜かれたような顔をしている。これが世界レベルというものなのだろう。
 だが、ウンバロールとパジェスだけは驚きもせず、普段通りのゆとりある態度を崩さないでいた。
 俺もこの二人のように、泰然自若とした振る舞いをするんだ。
 心は落ち着かず、空虚に怯えながらも、俺はゆとりのありそうな振る舞いをすることに努めた。
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