Ep.57 洗濯船 (Le Bateau-Lavoir)

文字数 1,761文字

 エリザベータのいる場所は分かっている。俺たちが初めて出会った場所、『ル・バトー・ラヴォワール(洗濯船)』だ。彼女は現在、精神病院に通いながら、絵を描いて暮らしている。『ル・ゾォ(動物園)』から盗んだデータに載っていた。
 彼女のアトリエに入ると、そこは油絵具の匂いで充満していた。描いている絵はどれも暗い。昔の可愛くてオシャレな絵とは似ても似つかない。だが、芸術が個人の精神を形として表す物なのだとしたら、こちらの方がむしろ芸術だろう。
 俺は、奥で絵筆を走らせている女性を発見した。
「ル・ポーン(孔雀) 。ジズだ。パジェスからの言葉を預かってきた」
 俺がアトリエに入ってもピクリともしなかったエリザベータが、「パジェス」という固有名詞を聞いた途端、ソバージュを振り乱しながらこちらに振り返る。
 一目でわかる。
 この動きは、完全に精神を病んでいる。
「パジェス ? 生きてるの ?」
 エリザベータは絵筆を投げ捨て、俺に掴みかかってきた。俺は大木のように微動だにしない。
「いや。だがさっき、本当の遺言を入手した」
「本当の ?」
 エリザベータの瞳孔は開ききっている。口には乾いた涎の跡だ。すえた匂いもする。
「ああ。覚悟したものだけが聞ける、本当の遺言だ」
「なんて言ってた ?」
 俺を揺するエリザベータに、俺は冷静に話しかけた。
「エリザベータ。俺は今、覚悟のあるものだけが聞ける、と言った。お前には、その覚悟があるのか ?」
「ある !」
「どんな覚悟だ ?」
「死んでもいい !」
 俺は、エリザベータを突き飛ばした。
「死ぬ覚悟ではない ! 生きる覚悟だ !」
 エリザベータは、尻餅をつきながら、唖然とした顔をしていたが、徐々に目の色が変わっていく。
「あなたに何がわかるの !」
「わかる !」
 語勢の強さは生き物の強さを表す。エリザベータは、俺の大声に怯(ひる)んだ。
「悔しいんだろ ? 俺が…一番良くわかる…」
「なんでよ…。あなたより、私の方が悔しいに決まってるでしょ ? だって、私、パジェスの恋人だったのよ !」
「知っている。だが、それでもなお、俺の方が悔しい」
「そんなはず、ないでしょ !」
 俺は、エリザベータと目を合わせ、許しを乞うような目つきで話しかけた。
「…ウンバロールやパジェスがやられたのは、俺のせいなんだ」
「嘘!」
「嘘じゃない」
「なぜ !」
「なぜ ? わざとやる訳がないだろう ! 一番大事な二人だ !! 俺だって、そんなことを知りたくはなかったさ ! けど、事実は事実なんだ ! 耳を塞いだところで、何も変わりやしない !!
 エリザベータは、虚(うつろ)な顔をしながら俺を見続けていた。
「できることなら仇を討ちたい。ただ、別に自分が死んでもいいが、死んだところで相手に傷一つつけられなければ意味がない。爪を立てたくても,爪が弱すぎて立てられない。普段の生活を送ろうとしても、パジェスのことが頭から離れない。お前は今、自分の無力感に苛(さいな)まされて、これからどう生きていけばいいのか、わからないんだろう ? 生きていると、気が狂いそうになるんだろう ?」
 エリザベータの大きな目が、丸になるほど大きくなる。だが、その瞳には感情が無い。
「俺もそうだった。だが、もう大丈夫だ。俺は、パジェスから力をもらった」
 どういうこと、という目で、エリザベータは俺を見続ける。その目には、少しだけだが、正気が宿ってくる。覚醒剤に逃げず、一縷(いちる)の望みを探していたようだ。
「エリザベータ。パジェスはお前に、良い彼女だった。幸せになってくれ、と言っていた。俺に、後を頼んでいた」
 エリザベータはハッとした。
「パジェスは、お前に、楽しい人生を送ってもらいたいと思っている。俺は、お前に、莫大な財産を渡すことができる」
 エリザベータの表情は戻らない。
「だが、俺たちは同じ鳥類。お前の気持ちはよくわかる。今のお前に、金なんて何の価値もない、ということを。パジェスの意思には反するが、もし、自分の爪で仇をとりたいと望むのならば、俺について来い。ついて来ないのならば、それでもいい。ただ、病むのはやめろ。俺がお前の代わりに、仇をとってきてやる」
 俺はそれだけを言い捨て、エリザベータの顔も見ず、『ル・バトー・ラヴォワール』を出ていった。
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