Ep.06 訪問者 (Le visiteur)

文字数 1,867文字

 十四歳の冬になった。
 いつものように隠れ家でミサンガを作っていると、上役が見たことのない男を連れてきた。いつも僕のことを気晴らしとばかりに笑いながら殴る上役が、この男には対しては平身低頭だ。上役のさらに上司なのだろうか。男は、ベットに座っているオレの前にきて、じっと目を見た。
 誰だろう、この人は。
 上役は怖いが、上役の上司に対しては現実味がないので恐怖を感じない。背丈も自分より低いし、ハゲてもいる。くたびれたワイシャツを着た五十代くらいの背虫男で、ちょび髭を生やしている。目が猫のように鋭い。
 男は、僕のあごを軽く持ち上げた。僕は、黙ってされるがままでいた。怖さは感じられないが、この男が偉いというのは雰囲気でわかるからだ。お世話になっている組織の上司に対しては、逆らう理由も逆らえる力もない。
 しばらく見られているうちに、僕は急にあることを思い出した。ペドフィリアという、美少年を性的に好む大人がいるという話だ。この男がそうなのかもしれない。
 僕は現在、組織に支払うお金を稼げてはいない。いずれはこうなる結末だったのだろう。この世界では上司のいいなりになるしかない。僕に良いか悪いかの選択肢は無く、僕の人生は上司の意思によってのみ決まる。
 ああ。こんなしがらみだらけの地上から離れて、いっそ優雅に大空を飛んでいきたいな。
 僕はなぜか、『クーデール』の仲間たちと屋根から屋根へと飛び回っている時の情景が頭の中に浮かんだ。男は、僕のあごから手を離して言った。
「なるほど。お前が最近あまり稼ぎが伸びない理由がわかった。目に生気がありすぎるんだな」
 僕は意味がわからずに男を見つめた。
「最近お前は、何か夢を持っているのか」
 男の言葉に、僕は素直に言葉が出てきた。
「空を飛びたいです」
 上役は慌てた顔をしたが、男は首をかしげて小さな黒目を少し上にした後で、にんまりとした表情で笑った。
「なるほど。面白い」
 男は、僕を立ち上がらせ、自分の周りをゆっくりと回りながら、体を舐め回すように見て歩いた。
 カツ。
 カツ。
 カツ。
 カツ。
 靴音が響く。
 まるで全身に耳がついたかのように、四方八方から男の靴音が流れ込む。その時間は、僕にとってとてつもなく長いように感じた。
「お前は空を飛びたいのだな」
 カツ。
「はい」
「お前がいつかは羽ばたく醜いキャナール(アヒル)の子なのか、一生飛べないプゥサン(ひよこ)なのか。お前は自分のことをどちらだと思うのだ」
 カツ。
「たとえプゥサンだとしても、絶対に空を飛んで見せます」
 男の歩みは止まった。
 目を閉じてじっと下を向いていた僕は、恐る恐る首を上げた。そこには、男の満面の笑みがあった。
「ならば、お前がどれだけの男かどうかテストをしよう。俺についてこい」
 言うと男は振り返り、ツカツカと部屋の出口に向かって歩き出した。僕が少し離れたところにいる上役の顔を見ると、上役は「ついていけ」とうながしている。
 僕は軽くお辞儀をした後、急いで男の後を追った。

 小男はその背の低さと比べて足が速い。混雑しているテアトル広場を滑るように抜けていき、どんどん南下していく。『クーデール』内でも、パジェスとレンドルフしか自分より上の実力者がいなくなった僕にとって、彼の後についていくのはとても楽しかった。パルクールを練習してきたおかげで、昔より明らかに混雑している場所でも速度を落とさずに移動できる。僕は夢中で彼を追いかけた。
 男はピガール地区へと入っていった。ここは犯罪が多いことで有名な地区だ。大通りには観光客用のキャバレーや小洒落たカフェ・バーがあり、裏通りにはパリジャン用のアダルトな店が軒(のき)を連(つら)ねている。
 ここは危険地区だ。やはり僕は、この男に、男娼として売られてしまうのではないだろうか。先ほどまでの夢中で移動していた気持ちが切れ、またもや恐怖が頭をよぎる。とはいえ、僕はまだ性的な経験がない。そして、多少だが好奇心はあった。
 もし売られたらその時はその時だな。死にはしまい。
 覚悟を決めれば簡単だ。僕は、落ちかけていた速度を再び上げ、何も考えずに必死で男の後を追うことに没頭した。

 しばらく進むと、小男は、ひとつの店の前で歩みを緩めた。僕も立ち止まり、目の前にある店の看板を見上げた。
『セックスショップ ピスケス』
 やはりアダルトショップ。おそらく僕の予想通りか。もしかしたら、映像を撮られて売られるのかもしれない。
「入るぞ」
 僕は男に背中を軽く押され、言われるがまま、素直に店内に入っていった。
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