Ep.10 裏取引 (Tractations Obscures)

文字数 2,636文字

 普段はこのようにして順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な日々を送っていた俺は、身長もさらに伸び、声変わりもした。
 十六歳の冬、ソファーに寝転んでいる俺に向かってピャルーは言った。
「プゥサン。お前、まだ、ひったくりをしているようだな」
「ん、え…と、ちょ、ちょっとだけですよ」
 俺は、自分の裁量でのスリは許されていたが、ひったくりや置き引きなどの誰かに見られる可能性が高い行為は極力避けるように言われていた。だが、青年になってきたがために刺激に飢えるようになった反面、あまりにもスリの技量が向上したために、危険やスリルを味わえるような展開が無くなってきていた。小金を持っているので、刺激を求めてタバコや麻薬や風俗も嗜(たしな)むようになってきたが、それでもなお、刺激に飢えているのだ。
「俺のいうことを聞けないならもう教えない、ともこの前言ったよな」
 俺はピャルーのことを愛していたので、あわててソファーから飛び起きた。
「え、と、その…、もうしません。今度こそ、もうしませんってば !」
 言いながら自分でも、もうピャルーから教わることは無いというような傲慢な気持ちが首をもたげていることがわかった。そして、ピャルーは自分のことを孫のように思っているので、こうしておけば怒られることはないだろうという甘い打算もあった。実際その通り、ピャルーは俺に対して怒ることはできなかった。
 ピャルーはため息をついた。
「実はな、お前に会わせたい人がいる」
「わかりました」
「じゃあ、ついてこい」
 俺は、誰だろうかとは考えたが、会わないという選択をしようとは思わなかった。なんせ、この二年間で俺の人生は大きく変わった。そして変えてくれたのは、この目の前にいる背虫(せむし)のピャルーに他ならない。そのピャルーがやれということは全てやる。一欠片(ひとかけら)の疑いもない。
 ただ、疑いはないが、もちろん不安はある。なんせ、激しくではないものの、怒られた後の提案だ。良いことでない可能性はかなり高い。
 俺は、ピャルーと共にコートをまとい、冬の寒いモンマルトルの街に出ていった。

 ピャルーの後につき、テルトル広場の雑踏をすり抜け、裏路地へと入る。二年前とは違い、俺は簡単にピャルーの後についていくことができた。途中、簡単そうな獲物を見つけ、手慰(てなぐさ)めに二人ほどつまみ食いまでするくらい余裕だった。
「さ。ここだ」
 ピャルーは、裏路地のつきあたりで止まった。三方を建物に取り囲まれており、自分たちスリからしてみると一番いてはならない場所、逃げられない場所、いわゆる袋小路だった。
「ここに誰が来るんですか ?」
 俺は周りを見回しながら、ピャルーから教えられていた危険行為の一つに値する「この場所に留まること」に一瞬戸惑ったが、ピャルーがいるのだから問題なかろうと思い直した。ピャルーは俺に言った。
「ここに誰が来るのか、か。ここに来るのはな」
 その時、奥の大きな道を歩く足音が止まり、誰かがこちらをじっと見つめていることに気がついた。
 男は近づいてくる。
 暗闇の中でもはっきりとわかる。
 あの黒い制服は、警察官だ。
 やばい。
 俺は、すぐに逃げようとした。俺のパルクール技術を持ってすれば、三秒で塀や窓に足をかけて屋根まで飛び上がることができる。既に足をかけられる場所も見つけてある。
 が、そうだ。
 ピャルーさん。
 彼は足が悪い。混みあっている平面をすり抜けるのは早いが、跳び上がるのは難しそうだ。俺は一瞬迷ったが、逃げるのをやめて観念することにした。
 この二年間を、楽しく、実りあるものとして過ごさせてくれたのは他ならぬこのピャルーさんだ。彼だけは何としても逃すんだ。俺はここで捕まったからとて、何年間かを刑務所で暮らすだけだ。そんなことはなんともない。むしろ、拾われる前と比べると、仕事をしなくて済むだけ出世というものだ。
 俺は、ピャルーの体を自分の影に隠して囁(ささや)いた。
「シャルトリュー(灰色猫)。ここは俺が囮になります。俺の影に隠れて。警官が近寄ってきた時に見つからないように体を半分ずらしますから、その隙に逃げてください」
 ピャルーくらいの背丈の人間を隠すのは簡単だ。だがピャルーは、俺の手を押しのけて前に出た。大柄な警官も近づく。警官は、俺の三倍は体重がありそうだ。腰には銃も携えている。一触即発の空気が流れる。
 警官は、無愛想な顔をして手を前に突き出した。銃は腰のホルスターにささったままだ。
「元気か」
 ピャルーは警官に言う。
「お前も元気そうだな」
 ピャルーと警官はがっちりと握手をした。
 いったいどうなっているんだ ?
 俺は意味がわからなかったが、なんとなく頭の片隅にある答えが、もしかしたら正解なのかもしれないと思い、脳の中央まで引っ張り出してきた。
 つまり、「ピャルーや自分の組織と、この警官は、手を組んでいる」という答えを。
 いやしかし、警察は罪を犯すものを捕まえるための組織なのではなかったか ? そして俺たちは「罪を犯す者」たち。どう考えても仲間であるはずがない。
 だが、目の前のふたりは世間話をして笑いあっている。
 理由はわからないが、今ここにある風景。これだけが現実であり、結果である。
 ピャルーは、放心状態になっている俺の背中を、警官に向けて軽く押し出した。
 俺はハッとした。
 もしかして、俺は売られたのか ? 俺がピャルーさんの言うことを聞かずにひったくりや置き引きをすることに対して、ついに組織が業(ごう)を煮やしたというのか ?
 足に力が入らない。脳裏を次々と邪推(じゃすい)が走る。信頼していた者に裏切られた衝撃というのは計り知れない。
 こんなことなら、こんなにもピャルーさんのことを信頼なんてしなければよかった。
 痛々しい後悔の念が湧き上がってくる。
 だが、ピャルーの言葉は和やかなものだった。
「新入りのプゥサン(ヒヨコ)だ。これから、よろしく頼む」
 警官は、指の太い大きな手を差し出してきた。指の関節にはたわわに毛が実っている。俺は頭が混乱し、弱々しく握手を返した。
「プゥサン、か。若ぇのに目つきの鋭ぇガキだな。短く刈った赤髪。よく覚えた。だが、俺らに捕まるようなヘマをするんじゃねぇぞ。こっちだって面倒なことは御免なんだからな」
 俺は未だに信じられず、気の抜けた顔をして、ヘイヘイと偉そうな顔でまくし立てている警官に、自分の頭の重みだけで何度か頭をさげた。
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