Ep.12 成長 (La Croissance)

文字数 2,396文字

 着いた場所は『セックスショップ ピスケス』。俺にとっての教会のようなものだ。二年前と同じように古ぼけた外観のまま、雪に埋もれるように白く佇(たたず)んでいた。
 俺はあの時と同じように、扉を開けたピャルーの後をついていく。暖かい空気に包まれる。自分が成長した影響もあるのだろう。ピャルーの背中がやけに小さい。店内も恐ろしく狭いが、あの時に感じたような不安や恐怖はなく、むしろ胸の真ん中に小さな期待があることを感じていた。
 棚の奥を曲がり、大きな人影を見た時、その期待とは、この人に会えるかもしれないという期待だったのだと理解した。
 ジャージにジーパンというラフな格好をしている大柄で柔和な男。シャモー(ふたこぶらくだ)。ウンバロールだ。
「久しぶりだな」
 ラフな服装にもかかわらず、圧倒的な人としての大きさを感じさせる。体格だけではない。何もかもを包み込んでくれる、神のような存在だ。俺は出された右手を伏しおがみながら両手で握りしめた。もし自分に父がいたのなら、こんな気持ちなのかもしれない。
 後ろに下がったピャルーは暗闇に消え、すぐに扉から出ていった音がした。寒気が細く部屋に滑り込む。俺はウンバロールの手の温かみを一段と強く感じた。ウンバロールは上機嫌で、白い口髭の下から低い声を出す。
「シャルトリュー(灰色猫)から君の成長ぶりは聞いているぞ」
「ありがとうございます」
「プゥサン君。まだ君には、空を飛びたいと思う気持ちはあるか ?」
「もちろんです」
 心の中は、もう今のままでも良いという満足な気持ちが残っているのかもしれない。ただ、今の俺には、「空を飛びたい」という気持ちを肯定する言葉以外を発せようという思いはなかった。
 あの日、この男の前で宣言をしてしまった時から、もう自分には引き返せる場所なんてないのだ。そして、この男の気持ちのいい笑顔に包み込まれていると、さらにこの男の期待に応えたいという気持ちがふつふつと湧いてくるのだ。
「うむ。それを聞いて安心した。君はシャルトリューから、空を飛ぶための基礎を教わった。次は、空を飛ぶための訓練の場を与えよう。これから君は、『レ・テネーブル・ド・モンマルトル(モンマルトルの闇)』の一員だ」
 俺は何を言われてももう驚かないという覚悟を固めていたが、まさかの意外性に思わず驚いた。
 『レ・テネーブル・ド・モンマルトル』
 深夜、貧しく良心的な者の家に忍び込み、枕元に、宝石や家電などの金目のものを置いていく義賊。彼らが何者で、何人いて、物品をどこで仕入れているかはすべて謎に包まれているが、彼らが置いていった物品には、黒い新月の模様が入った紙が貼られているという。
 俺の周りには実際に遭遇した人はいないし、都市伝説だと思っていた。だが、まさか本当に存在し、しかも、自分がその一員になろうとしているとは。
 なんでも想像できる夢の中でさえも、こんな突拍子なお話は考えもつかない。俺は目と口が丸くなり、放心状態になった。ウンバロールは悪ガキのように、お茶目に輝いた瞳でさらに告げた。
「実は、君を『レ・テネーブル・ド・モンマルトル』に推薦した動物が、シャルトリューの他にもう一匹いる。出てこい」
 ウンバロールの後方にある暗い入口から人が現れる。漆黒のスーツをまとい、端正な顔立ちに口ひげを蓄えている二十歳後半くらいの男。まるでパリコレのモデルのようだ。
「ドゥーファン(イルカ) !」
「よぉ。夜は凶暴なんだ。オルク(オルカ)と呼んでくれ。闇へようこそ」
 そこにはいつものお茶目な雰囲気とは打って変わって、落ち着いた雰囲気の、リーダーにふさわしい頼れる男が立っていた。
 パジェスだ。
「プゥサン。オルクと一緒にずっとパルクールの練習をしてきたが、今では君は、ドゥーファンも舌を巻くほどに素早く飛び跳ねることができるらしいではないか。次はオルクのように鋭い牙を持て。私の役に立ち、私の好きな街、モンマルトルの貧乏なものたちの救世主となるのだ」
「シャルトリューは ?」
「猫は、オルカほど高くは飛べん」
 ウンバロールは、残念そうに首をふった。
「ヒヨコは ?」
 セロは戸惑いながらも、つい聞いてしまった。
「ヒヨコ。ヒヨコも、これ以上高くは飛べん」
 沈黙。
 ウンバロールは、真面目な顔を崩さない。時が止まったようだ。だがパジェスは、こんなに真面目なシーンだというのにニヤついている。
 俺は求めていないのに、今後の話の展開を考える時間を与えられてしまった。
 もしかして、ウンバロールに対する絶対の忠誠を誓っておきながら、ピャルーに対する甘えた気持ちが抜け切れていないことが言葉の端に漏れていたのではないだろうか。より高く空を飛ぶより、細い路地をうろつきまわる野良猫の生活が俺にはお似合いだとでも思われたのではないだろうか。
 そんな馬鹿な。俺の野望はこんなところで終わるようなものだったのか。ウンバロールさんが俺に対して抱いてくれた期待に応えることはできないのか。
 俺の鼓動は速まった。足は震え、知らずウンバロールの足元にひざまずく。
 数瞬の後、ウンバロールの口が再び動き出した。
「そう。ヒヨコは空を飛べん。そこで、だ」
 ゆっくりと、ウンバロールの右手が俺の頭に伸びる。
「セロ。ヒヨコは卒業だ。君はこれから、コック(ニワトリ)を名乗れ」
 ウンバロールの掌は、俺の頭がすっぽりと入るほど大きく、そして温かかった。
 コック。
 今から俺はコック。
 頭の中で、そういえば、ヒヨコがニワトリになる瞬間を見たことがないな、という声が聞こえた。同時に、自分(ヒヨコ)の皮膚からバリバリと音を立てながら、強固で白い羽が突き出し、黄色い羽が押しのけられて散らばり、頭から威厳のある赤いトサカが生えてくるイメージが想像できた。
 一つの名前によって、俺は生まれ変わるほどのレベルアップを果たした。
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