Ep.09 僕と俺 (moi-même)

文字数 3,111文字

 十五歳の夏。僕はかなり身長も伸び、一人で仕事をするようにもなっていた。夜の繁華街は、一番スリをするのに都合がいい。
 ある晩、ピガール地区でキャバクラ帰りの客を狙っている時のことだ。蛍光緑のサマーセーターを着た細長い黒人が、体格のいい三人の白人に囲まれていた。難癖をつけられている。
 人種差別。よくある光景だ。
「おい、お前。今、俺たちを睨みつけたよなぁ」
「ぶつかったのはテメェの方だよなぁ」
 黒人は言い返さない。ただ睨むだけだ。
「なーに黒人のくせに睨みつけてんだよ」
「おい、テメェ。ちょっとこっち来いよ」
 黒人はセーターをひっ張られ、奥の方に連れていかれた。
 ん ?
 僕は、あの細長い黒人の少年のシルエットに見覚えがあった。
 あれは…、ウォーカー ?
 四人は裏道に入っていった。
 僕は、声が聞こえる位置まで何気なく寄ろうとした。だが、一人が出てきて見張っている。あまり近くまでは近寄れない。街の喧騒に紛れて、裏道からは、かすかに怒声が聞こえる。
「黒人のくせに、何こんな服着てるんだよ」
「おい。こういう時には、お詫びってもんをするんじゃねーのか ? あ ?」
 よくある光景。そう。よくある光景なのだ。あんなに小綺麗な格好をしてこんな場所を歩くのが、そもそもの間違いなのだ。
 危険に飛び込む行為は馬鹿げている。助けようとすれば、余計に二人とも怪我を負ってしまうかもしれない。こんなことで怪我をして、明日からの練習に支障をきたしても仕方がない。僕は見て見ぬ振りをして、通りを離れることにした。
 離れる時、視界の端に、ウォーカーが胸ぐらを掴まれている姿が見える。
 その瞬間、僕の胸の中の炎はカッと燃え盛り、後はもう、何も考えられなくなってしまった。
 ウォーカー ! 俺のウォーカー ! ウォーカーは俺の物だ !
 僕は、ひったくりをする時に使う帽子とマスクをかぶり、TIOR-C4の練習用に使う木製のナイフとハンドガンの模型を両手に持っていた。
 相手は三人とも二メートル近い身長だ。練習では百八十センチにも満たないレンドルフ一人にいいようにやられている自分では、到底、歯が立たないだろう。
 だが、TIOR-C4は、いきなり相手を行動不能に陥(おちい)らせることに長(た)けている戦場での戦闘技術だ。ウォーカーを救い出して、逃げる時間を稼ぐ程度の勝算は残されている。
 僕は、背後から見張りに近づき、壁を利用して少し飛び上がりざま、男の首を、腕とナイフの模型を使って絞めた。
 相手の背中を自分と密着させ、しっかりと首に巻きつく。
 頸動脈に流れる血が止まった感覚が、自分の腕に生ぬるく伝わる。
 見張りは、数秒で意識を失った。
 見張りを壁に寄りかからせ、裏道の影へと素早く潜り込み、気配を殺してウォーカーたちに走り寄る。
 そのまま横を向いている男の膝(ひざ)の関節を踏み潰した。膝の関節は、横から踏み抜くと脆い。変な曲がり方の足をした男が、うめき声を上げながらこちらへ振り向くのと同時に、渾身の力を込めて、男の顎(あご)にハンドガンの模型で殴りつけた。ここを殴るとテコの原理で脳みそが揺れるのだ。
 男は、白目をむいてゆっくりと前に倒れていった。
 あとは、奥にいる一人だ。
 まずはウォーカーの手を引っ張り、倒れる男をバリケードがわりにして、ウォーカーを表通りに飛び立たせる。これで少し逃げる時間を稼げれば、自分も逃げられる。
 だがウォーカーは、表通りに出た後、逃げずに、こちらを心配そうに見ながらオドオドとしている。
 早く逃げろ !
 僕は手で追い払う仕草をした。
 仲間がやられたことに狼狽(うろた)えた男だったが、僕が自分より背の低い男だとわかった途端に調子付き、逆上して襲いかかってきた。相手が倒れた男を跨(また)ぐ。
 この機会を待っていた。相手のバランスが崩れるからだ。
 僕は、相手の腕にナイフの模型を叩きつけざま、相手の金的に、思い切り、蹴りこんだ。上に注意を引かせておいて、本当に攻撃する場所は下というフェイントだ。男は見事に引っかかった。
 相手の股(また)にぶら下がっている柔らかいものが、ブチュ、と言う音を立てて潰れた感覚が足に張り付く。
 男の腕に力がなくなる。
 少しの遅れの後、男は、叫び声をあげて悶絶し、吐瀉物(としゃぶつ)を撒(ま)き散らしながら、倒れ、転がり、暴れ狂った。
 こんなものか。いきがっている人間も、俺の手にかかればこんなものか。
 転がっている二メートルクラスの男たちを見ながら、俺は誇らしい気分になった。
 男として勝っているという感覚。気持ちがいい。
 俺は、倒れている男をしばらく見下ろした後で、軽快に屋根まで飛び上がって、ピャルーの家へと戻った。
 俺はこんなにも強い。こんなにも強いのか。
 俺の下着の中は射精で汚れていた。
 その晩、俺は自分の強さに気づき、興奮して寝付くことができなかった。

 『愛情のない他人は血と金が詰まった肉袋に過ぎない』
 この世界における真実を学んだ俺は、これ以降、強い者から搾取(さくしゅ)する刺激にたまらなく興奮するようになった。
 その結果、ピャルーが教えてくれるスリよりも、置き引きやひったくりの方が好きであることがわかってきた。相手の呼吸を読み、絶対力を入れられない呼吸の隙間に素早く潜り込み、相手の荷物をひっつかみ、そして走り去る。この時もパルクールの技術が大いに役立った。
 こっそり盗むのではなく、相手と追いかけっこで勝つ。
 お金を手に入れることよりも、盗んで逃げることの興奮が、俺に勝利という名の至福を感じさせた。たまに見つかって囲まれることもあったが、その度にTIOR-C4とパルクールを駆使して切り抜け、その度に自分の強さと生命を実感した。
 もちろん、このやり方を毎日何人もの相手に対して続けると、モンマルトルの治安についてマスコミに叩かれる。マスコミは組織よりもさらに大きな力を持っているので敵にしてはならない、ピャルーから強く諌(いさ)められていた。
 そのために俺は、一日一組だけ、しかも同じ場所では無く、パリのあちこちで、観光客だけを相手におこなった。
 小さなものは、大きな場所に紛れると消える。
 小さな部屋に出現するゴキブリよりも、デパートに生息するゴキブリの方が目立たない。観光客だけ、フランス国民に対してはひったくりをしなければ、国民の感情を揺り動かさない。
 当事者でなければ誰も興味がない。
 興味がなければどんな社会問題でもニュースになることはなく、目立つこともない。
 おかげで俺は、一度も逮捕されることがなかった。

 一年が過ぎ、二年が過ぎる。

 俺は人を見る目が肥えてきた。一目見れば相手がどのような国の、どんな性格の金持ちなのかがわかるようになった。
 また、最初は現金を持っている人間を見定めていたが、慣れてくるにつれて、一度に大量のお金を稼ぐことができるように、キャッシュカードやスマートフォンなども狙うようにもなった。スキミングの技術を覚え、スマートフォンのIDと銀行のIDが同じタイプの人間を選ぶようになり、さらに、誕生日をIDにしている人の免許証で銀行からお金を下ろせるようにもなった。IDがわからない人も、スマートフォンのメモに入っていることが多かった。そういうお金を引き出すことに関する創造力も一流になっていった。
 ATMでお金を下ろす時には映像で撮られているので、黒人の女装をする。美しい外見の俺にはピッタリだったし、別人になるという行為は、また俺の違う部分の欲望を満たしてくれた。
 こうして俺は、ピャルーから沢山の技術を習得していった。
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