Ep.33 権力 (pouvoir)

文字数 2,774文字

 上の階は屋上になっている。大きな直方体のガラスの中に、浮いたようにして床が広がっている。まるで、空の上に空間が作られているようだ。
 まだ工事中のためなのだろうか。何もなく、真ん中に、急遽この日のために置かれたかのように、不釣り合いな三人がけソファーと、ワインの乗った丸い小机が置かれている。
 近づいていくと、ネクタイを外した、ピチピチのワイシャツを一枚まとっただけの、こざっぱりとした格好をした大男が、ソファーを軋(きし)ませながら、ノートパソコンをいじっていた。
 ああ。懐かしい。
 その後ろ姿は、俺の記憶の原風景、あの『セックスショップピスケス』の店長そのままだ。
「シャモー」
 俺が呼びかけると、ウンバロールは、昔の顔そのままで、優しく振り向いた。
「待っていたよ。今日は二人きりだ。シャモーとコック(ニワトリ)ではなく、ウンバロールとセロとして話をしよう。座りたまえ」
 俺はもう、この目の前の偉大な人物に心を奪われてしまった。
 恐る恐る、ウンバロールの隣に座る。
「このソファーはL字型になっているだろう ? 一番心を許しやすい座り方なんだ。君も女性と座る時は、こういう席のある店を予約したまえ。何なら紹介してあげようか ?」
 ウンバロールは笑ったが、俺は緊張している。
「どうした ? 緊張しているのか ?」
「そりゃ、もう」
 俺は、乾いた喉でうなづいた。ウンバロールは、赤ワインをグラスに注いで、自分に手渡してくれる。
「喉(のど)を潤(うるお)しなさい。私たちの間で、緊張は無用だ。そりゃあ、みんなのいる前では、私も君も、身分のある身だ。カッコつけ、威厳を正さなくてはならない。だが、二人だけの時は、私のことを、父だと思いなさい。家族の間で緊張することなんてないだろう。ほら、上着も脱いで。ネクタイも緩(ゆる)めていいぞ」
 俺は、グラスを一気に空(から)にした。
 まだ緊張していたが、確かにウンバロールは、いつも、俺の正直を真剣に受け止めてくれる。今思えば、幼稚で、失礼に当たることに対しても、全く機嫌を損ねることがなかった。
 俺は思い切って、普段通り、上着を脱ぎ、ネクタイと背筋を緩めた。
「うん。それでこそ、二人だけで話す意義があるというものだ」
 ウンバロールは微笑み、こちらも体を緩めて、のんびりとした口調で話を続けた。 
 けれども、語調とは裏腹に、話は、いきなり本題に切り込んできた。
「セロ。君は、この前の会議の時に賛同してくれたが、正直なところ、どう思った ?」
「はい。晴天(せいてん)の霹靂(へきれき)でした。けれども良いと思います」
 ウンバロールは、一度作り笑顔をした後で、少し困った顔をした。
「うん。ありがたい。だが、私は、本音を聞きたい。他ならぬ君だからこそ、本音を聞きたいのだ」
 本音…。
 俺は、言っても良いのか迷った。だが、ウンバロールとパジェスだけは信用できる。
 思いを全て吐露(とろ)しよう。
 正直であれば何を言っても問題ない、という信頼感が、身分の違いを超えて、二人との関係性には存在していた。
「俺は、ウンバロールを信頼しています。絶対に裏切らないし、どんな答えを言われても、ついていこうと決めています。けれども正直、俺は、ウンバロールが、どこに向かって進んでいこうとしているのかがわかりません。今の自分は、好きな女を手に入れ、街では顔役の一人とさせてもらい、お金もいただけている。可愛い部下もできた。俺のこの世界は、子供の頃には、思い描くことすらできませんでした。そして今、こんな空中空間で、尊敬するあなたと二人きり、お話をさせてもらっています。これ以上高く空を飛ぶということが、俺には理解できないのです」
「なるほど」
 ウンバロールは、一つ溜めた後で続けた。
「この景色を見てご覧」
 俺は、言われて景色を見た。日が落ち始め、暗くなり、街にオレンジ色のあかりが灯(とも)る。
「この中でも、目立って見えるのは、エッフェル塔以外に、パリで一番高い丘、サクレ・クール寺院が光っている、我らがモンマルトルだ。私たちは、あそこから始まった。そして、パリの中心部で一番高い、このトゥール・モンパルナス。これが今の私たちだ」
「はい」
「けれども、あちらを見てご覧。パリ市外、ラ・デファンス地区。あちらには、たくさんの高層ビルが建っているね。そして、私たちの今いるビルよりも高い建物が、今後もどんどん出来ていくそうだ」
「はい」
「そして世界には、さらに高いピルはたくさんある。サウジアラビアには、キングダムタワーという、千メートルを超えるビルも出来るらしい」
「千メートル !」
 一通り聞いたが、やはり、俺には理解ができない。
「つまり、一番高いところに住みたい、ということですか ?」
「いや。住まなくてはいけない、ということだ」
「なぜでしょう ?」
 景色がいいからなのだろうか ? それとも、ただ、男として負けたくないから ? どんな理由でもついていくことに疑念(ぎねん)の余地はないが、それでも知っておけることは知っておきたい。
「ふむ」
 ウンバロールは立ち上がり、少しの間うろつき、そして立ち止まり、眼下に広がるパリの景色を見下ろした。俺も隣に行き、同じ景色を見下ろす。
「セロ。君は、神がなぜ偉いのかを、知っているかい ?」
「神は、俺たちを救ってくれるからですか ?」
「君は、神に救われたことがあるかい ?」
「神のお導きで、あなたに会えたと思っております」
「どう導いてくれたんだい ?」
 言われて俺は戸惑った。そんなことは何も考えたこともない。ただ漠然と、そう思っていただけだ。
「それは…、運命というか…」
「運命とは何だい ?」
 俺は、何も答えられなかった。何もかもが抽象的すぎたからだ。だが、それを迷いもなく信じていたのも事実だ。
「もし神が本当にいるのなら、そもそも不幸な人間なんて、一人も作らないはずではないのかい ? 君も最初から、生まれた時から両親を知らずに過ごす、なんて生活をしなくても良かったはずではないかい ?」
「それは…」
「それに、信じるものは救われる、という発想は、信じないものは、救える力を持っているけど救わない、ということでもある。人間の歴史の中、各地で宗教による戦争が起きているのも、自分を信じないなら殺せ、と神が命じているからなのだろう。そんなに狭い了見のヤツは、人間だって友達になりたくない。悪の道に進もうと決意している私だって、泣いている子供がいたら助けてあげたい。そう思わないかい ?」
「確かに…」
「つまり、神というのは、ただの横暴な権力者に過ぎないのだよ。この世界は、権力者によって全てが決められている。これは疑いようがない」
「だから、世界で一番になりたい、と」
「うん」
 ウンバロールは、遠い目をして続けた。
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