Ep.08 灰色猫 (Chartreux)

文字数 3,651文字

「さて、セロ。これから、プゥサン(ヒヨコ)という名前は、君の正式なファミリーネームとなる。飛べるように、精進(しょうじん)しなさい」
 ウンバロールは嬉しそうだ。僕は、自分の目が未来への展望で輝いていると自分自身でも感じた。
「そして、君を導いてくれた男の名は、ピャルーだ。彼は、シャルトリュー(灰色猫)というファミリーネームがある。プゥサンはこれから、シャルトリューの元で、空の飛び方を、一つ学ぶといい。いいね」
 ピャルーは一歩前に出た。
「プゥサン。俺が、お前に授けることのできるレゼル(翼)は、これだ」
 ピャルーは、短い枯れ枝のような両腕を精一杯伸ばしたあとで、腕を下ろした。両袖(そで)から、幾つもの財布が溢(こぼ)れ落ちる。
「気付いていたか ? 俺がここに来るまでの間、これだけの財布を盗んでいたということを」
 僕は驚いた。ただついていくことに精一杯だったとはいえ、ずっとピャルーのことを見続けていたのに。盗んだそぶりなんて一度も見えなかった。
「この技術さえ身につければ、他人のお金はすべてお前のものだ。上役に払うお金も簡単に払えるし、どこかに行きたいと思えば、その瞬間に行くことができる。行った先でもお金に困らない。どうだ ?」
 僕の高揚感は止まらなかった。これだけ望んでいるのに手に入れられないお金が、あっという間に手に入る。お金さえあれば、上役に飼い殺されることもなく、簡単に自由を手に入れられる。働く必要だってない。周りの人間はみんな僕より偉いと思っていたが、何のことはない。自分が弱かっただけだ。この技術さえ手に入れば、人間なんて全員、僕の金づるにしか過ぎなくなる。
 僕はウンバロールだけでなく、このピャルーという小男のことも尊敬のまなざしで見るようになった。

 ピャルーに正式に弟子入りした。ここからの人生は一変だ。毎日ダラダラと朝から広場に出て、観光客相手に小銭を稼ぎ、夕方になるとパジェスたちとパルクールやTIOR-C4の練習をし、夜には上役に払うお金が足りなければ内職、内職もなければ筋肉痛に包まれてお尻をかきながら寝るという毎日。それが物乞いや内職から解放され、ボロアパートの共同部屋からピャルーの家に引っ越して、小さいとはいえ部屋をもらい、スリの腕を磨くことに全力を注入することができた。

 サン・クレール寺院の前で、ピャルーは僕に、スリについて教えてくれる。
「スリにおいて一番重要なことは何だと思う ?」
 僕は今までの人生で、自分の意見を聞かれたことがない。考える行為は苦手だ。だが、意見を聞かれたことが嬉しくもある。必死に考えた。今まで使ったことのない脳の一部分が働いている気がする。
「んーと、素早さですか ?」
「いや、違う」
「技術 ?」
「ノン」
 僕は、それ以上は、いくら考えても思いつかなかった。もう出ないと思ったのだろう。ピャルーはシワシワの目尻を鋭く立てた。
「プゥサン。スリにおいて一番大切なこと。それは、観察することじゃ」
「観察 ?」
 答えが思っていたのとあまりにも違うので、僕は素っ頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。ピャルーは、当然だ、という顔をした。
「そうだ。通りを見ろ」
 僕は通りを見た。いつも通り、各国たくさんの観光客で賑(にぎ)わっている。 
「お前が標的にするとしたら、誰を狙うんだ ?」
「あの人たちです」
 僕は、太った二人組のアメリカ人をそっと指差した。
「二十点だな」
「なんで ?」
「奴らはいい服を着ているので、お金を持っている可能性が高い。そこまではいい。だが、荷物が少ない。また、首にスマホ用のストラップをつけている。他人との接触を極力避けようとしている。互いの距離が遠いので、他人から干渉があった時には、お互いが何をされているのかがわかってしまう。おまけに、腹の出っ張りが二段階であることから、おそらく大事なものはお腹にしまっているのだろう。そして奴らは、アメリカではなく、スウェーデン人だな。スウェーデン人は現金を持っていない。みんな電子マネーだ。パスポートやキャッシュカードを現金化する方法はあるが、足元を見られやすい。以上の理由から、労力と危険の対価にして、奴らは良いハト(日本でいう「良いカモ」の意)ではない」
「それじゃあ、どういう人がいいんですか ?」
「そうだなぁ。あいつらがいい」
 ピャルーが指差したのは、いつも自分がやっている、物乞いにお金をあげている老夫婦だった。
「え ? あの人たちですか ?」
「そうだ。動きが遅い。現金を持っている。物乞いに多めのお金をあげるだけの財力がある。今、財布をしまったので、財布の場所もわかっている。バレても力がなさそうなので逃げられる。それにほら、おばあさんの方は、口の広いトートバッグを肩にかけている。まさしく狩場にノコノコとやってきた獲物にしか見えない」
「でも、あの人は良い人ですよ」
 いつも物乞いをしてもなかなかお金がもらえない中で、ああいう夫婦の笑顔は本当に貴重だ。僕の気持ちをピャルーは一蹴した。
「良い人じゃない。良いハトだ」
「あんな人から奪うだなんて」
「奪うのではない。富の再分配だ。富める者は貧しい者に施せ。それを神がやらないから、俺たちが代わりにやっているだけだ。キリスト教でも教えている」
 ピャルーの断定口調に、僕も何だかそんな気がしてきた。知識のない僕にとって、キリスト教という名前は、全てにおいて一番正しい感じがする。
「ほら、あれを見てみろ」
 ピャルーに言われてその老夫婦を見ると、彼らの元に、東アジアのジプシー風の少女が、前から二人、後ろから一人やってくる。
「アンケートに答えてもらえませんか ?」
 老紳士はニッコリとして答えてあげているが、アンケートボードの下にあるポケットからは、残らず貴重品が抜き取られている。ニコニコと見ている老婦人の背後からは、違う少女が忍び寄り、バッグから貴重品を盗んでいる。その間わずか、三十秒ほどだ。
「ありがとう」
 言って去っていく少女たちは、何に対して「ありがとう」と言ったのだろう。老夫婦は、一瞬でスッテンテンにされてしまった。
「見たか ? これが世の中だ。俺たちがやらなきゃ他の誰かがやる。それだけだ」
 ピャルーは言いながら、今の一連の出来事を、犯人のアップを含めた動画を撮って、誰かに送っていた。
「誰に送ったんですか ?」
「組織だ。今のやつが組織のものでない場合は、粛清するか組織に組み入れる。ここは俺たちの管轄だからな」
 ああ。世の中は力が全てなんだ。力がなければ、どんなに良い人も、ただの獲物に過ぎない。力のない僕は、力をつけなければ、誰かに食われる獲物に過ぎないんだ。僕がこの世界で泳がされている理由は、単に獲物として食う価値もないからなんだ。
 僕は、価値のない人間として生きていく生活も悪くはないと考えたが、もう元の生活には戻れないんだということも理解していた。戻れないなら力をつけるしかない。僕は本気で、スリのテクニックを学んでいこうと決意した。

 こうして毎日、他人の視線や行動を見ながら盗み方を教わり、色々なパターンでのスリの練習を重ね、簡単な獲物から順番にスリの実践を重ねていった。
 ピャルーはフランス人らしく、スリとは一種の芸術だと考えていた。他にもたくさんの盗みのテクニックがある中で、スリはシンプルにして一番難しく、相手と直接向き合う。静かで単純な美しさの中にも、相手の呼吸を読み、わずかな動作で、相手に気づかれずに奪い去るという、まさに匠の技。また、個人ごとのセンスも必要だ。
 僕は必死に、ピャルーの教えに食らいついていった。

 まず最初は、誰にでもできる技から。相手に何かで夢中にさせておいて、その間にもう一人が盗むという方法。最初にアジアのジプシー少女たちがおこなっていた手口だ。夢中にさせることは何でもいい。アンケートだけではない。水をかける。アイスを持ってぶつかる。絵葉書をしつこく売りつけようとする。写真を撮ってあげますよと言って近づく。本当に色々だ。
 このスリ方法は、相手の注意力をいかに下げさせるかどうかという闘いだ。相手の注意力をなるべく自分に振り分けさせれば、盗まれることに対する注意力はそのぶん低下する。僕は、この注目させる方法をしていくうちに、自分の外見が美しいということを知り、警戒されることが逆に、注意力をひきつける武器にもなるということを知った。
 盗むという行為は単純なようでいて、他の仕事と同じように、「創造性」が必要だ。
 この創造性という点で、僕は非凡な才能を持っていた。善悪も無く、ただ夢中で次々と新しい注意のひきかたを考えた結果だ。
 あまりに新しく、残忍な方法を次々と考えつくために、ピャルーが「小手先の技に走ってしまうようになるのではないか」と危惧して、練習を切り上げてしまうほどだった。
 僕はやればやるほど成果が出てくるスリに熱中し、ピャルーが驚く速度で腕前が上がっていった。
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