トリビアつづき:「木曽最期」のさらなるモヤモヤ(矢は義仲のどこに当たるのか問題)
文字数 1,738文字
前ページでこう書いた。
「義仲は、ひとりで馬を走らせながら『今井どうしたかなー』とふり向いたところをあっさり討たれる」
これは『平家物語』のとおりだ。
私(作者)は「バトルシーンが苦手」という自覚がある。ズバッ、ドピュッというのが好きでない。知識も少ないから、戦闘の場面が克明に描写してあるとそれだけで尊敬してしまう。
だが、たまたま、今年発売されたばかりの源平サーガものの新刊(作品名と作者名はあえて伏せる)をぱらぱら見ていたら、こんなくだりがあってびっくりした。
「義仲は焦りを覚えた。友を振り返る。
瞬間、額に、凄まじい衝撃が走っている。――矢が深々と刺さっていた。血がどっと目に流れ視野をふさぐ」※
『平家物語』「木曽最期」の該当箇所はこうだ。
「今井が行方のおぼつかなさに、ふり仰ぎ給える
内甲。
Weblio辞書では「兜に隠された額の部分など」とある。
だけど、兜に隠された額の部分に、どうしたら矢が当たる?
どういう角度だ。ほぼ真下からでないと不可能じゃないのか。
兜を矢が貫通? それなら「内甲」をねらったとは言わない。
(ちなみに広辞苑では、単純に「兜の内側」。)
義仲の矢は、額には当たらないはずだ。
頸動脈を切っているんじゃないのか。
兜をかぶっているときの鉄則。顔を上げてはいけない。
兜には基本「
(いまでも消防士さんのヘルメットから垂れる防火布をシコロというそうだ。)
顔を上げたりふり向いたりすると、この錣のあいだから首がむき出しになってしまう。そこをねらわれる。額ではない、首をねらわれる。
わかっているのに、
「今井が行方のおぼつかなさに」(今井はどうしているだろうと思って)
顔を上げて、ふり向いてしまう義仲があわれなのだ。
この知識、作者は高校の授業で習った。いま現役高校生の読者さまがおられたら、きっとうなずいてくださると思う。
「木曽最期」の義仲は、あわれだ。義経以上に猛スピードで頂点に昇りつめた男が、その何倍速もの速さで堕ちていく。
義仲が
かっこよくない
というところが、ラストシーンの最大のポイントなんじゃないのか。それでも義仲、巴を逃がすまでは気を張って凛としている。そこも泣ける。巴になさけない姿を見られたくないのだ。巴ちゃんの気持ちより自分のプライド優先。ほんとバカ。男らしい。そして、兼平と男二人になったとたん「日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」(着慣れた鎧が今日は重いよ)、なんて弱音を吐く。いっしょに死のうとだだをこねて兼平に叱られる。そして、そして、
じつは辛すぎて今の今まで書けなかった。
もう書いてしまう。
兼平と別れて一人になった義仲は、
うっかり田んぼに馬を乗り入れる
という大失態をやらかすのだ。
あり得ない。
たしかに、不運なことに氷が張っていた。
「薄氷は張ったりける」
目の前がかすむくらい疲れてもいる。
それでも、見ればわかりそうなものだ。一度は天下を手中におさめかけた男、木曽の荒馬を乗りこなして山河を駆けめぐってきた男にはあるまじき凡ミスだ。
痛すぎる。
馬がもがきながら泥中に沈んでいく。当時の馬はいまのサラブレッドより一回り小さい。
だから義仲、ふり返るとき、顔が上向きになる。
ふり向いちゃいけないのに、まして上を見ちゃいけないのに、
ふり仰いで
、首を射られる。
このダメさ。この哀しさ。
この人間らしさに、昔の聴衆や読者は涙をしぼったんじゃないのか。
『平家物語』、じつはそうとう残酷なのだ。何がって、キャラクターに対してだ。容赦ない。いまここには書かないけれど、義経や知盛が冷めた目で厳しく描かれている場面もある。
私(作者)がモヤモヤするのは、義仲くん本人に対してではないかもしれない、と、やっとわかってきた。
こんなに思いっきりダメをさらして死んでいく義仲くんの、どうしようもないキュートさを、
「かっこいい補正」
してつぶしてしまう、いろんな小説の甘さに対してなのだ。
※武内涼『源氏の白旗 落人たちの戦』実業之日本社,2021年,219ページ.