私を月に連れてって (14)
文字数 807文字
片腕が、すっと前へ上がる。
「山の調べは
海の調べは 波の音」
両腕をさし出してそろえ、ふわりと両側へ開く。
離れていくふたつの手首が弧を描き、半円を描く。
「月は船
星は白波 雲は海」
澄み昇る、という。
声が、天へ昇っていく。
「暁しずかに 寝覚めして
思えば涙ぞ おさえあえぬ」
直前まで「最近歌ってないからなぁ、うまく歌えるかなぁ」と、白いブラウスのすそをつまんでもじもじしていた女の子とは、別人だ。
凛と。
圧倒的な声量が、四方の大気をまとめあげていく。
声と言うよりは、噴水、ガイザーだ。
彼女の立つ地の一点から噴き上げる透明な響きが、そのまま彼女の体をつらぬいて天頂へ走る。ほとばしる。
「嬉しや水 鳴るは滝の水
日は照るとも
絶えず とうたり」
「とうとうたらり たらりら らりとう」
鼓膜の振動などというのではすまされない。
全身の肌に浴びせられ、揺さぶられる。
空中の水の粒がことごとくふるえ、喜んでいる。無数の微粒子が立ちあがり、枝をはなれ、花から、葉から、われさきに上空をめざしていく。
クリストフの膝の上のタンバリンの膜も、青いリボンも、こまかくふるえている。
「またうっかり叩いちゃって何か起こったら困るから」と言ってあずけられたのだ。
だからいま、あたり一帯の空気を動かしているのは、純粋にアリアの声と、柔らかく宙を切っていく彼女の手と、時折、とん、と静かに地を踏む彼女の足だけだ。
「とうとうたらり たらりら とうとう」
※
「山の調べは桜人……」『梁塵秘抄』第三二三番
「月は船……」同 四五〇番
「暁しずかに寝覚めして……」同 二三八番
「嬉しや水 鳴るは滝の水……」
延年舞の歌詞。『梁塵秘抄』の他、能の「翁」にも取り入れられている。
延年舞とは寺院芸能の一つで、僧侶や稚児たちが大法会のあとの宴席で余興として歌い舞った。
能の「安宅」では弁慶がこの曲を舞い歌うシーンがある。