うちへおいでよ (2)
文字数 1,799文字
思えば涙ぞ おさえあえぬ
はかなくこの世を過ぐしてや
いつかは浄土へ参るべき
彼女の歌声が耳に残っている。
明け方、目が覚めて、しんとした中でひとり考えていると、涙がこぼれてしまう。
こんなふうにむだに生きていて、いつか極楽浄土へ行ける日なんて来るのだろうか。
来ないかもしれない。
『梁塵秘抄』第二三八歌だ。
新潮社の古典集成シリーズ『梁塵秘抄』の解説には、「老境に入ろうとしている人の、深刻な内省を詠じたもの」とある。
意味がわからない。
作者は高校生のとき、授業でこの歌を習って、衝撃を受け。
こっそりノートに書き写して持ち歩いていた。
自分のことかと思ったのだ。
十六のとき――
三十になった自分なんて、想像できなかった。
わからない。私(作者)だけかもしれない。たしかに知り合いには、
「将来は一流証券会社に入って、戸建ての家を買う。結婚は三十前後で子どもは二人」
とかしっかり人生設計をしてるやつもいた。すごいと思った。
それまで生きてるつもりでいるんだ、と思った。
べつに死のうと思っていたわけではない。
たんに想像できなかった。歳を取るとどうなるのか。死んだらどうなるのかと同じくらい想像できなかった。
二十歳か、二十五歳か、わからないけれどもなんかそのあたりでめちゃくちゃ凄い激変とかあって、いまの十六の自分とは違う生き物になっていそうな気がしていた。
イメージで言うと、苔まみれの石みたいな。
もう、それは、自分じゃないよね、と思っていた。
そして、
二十を越え三十を越え、それよりさらに生きてしまって、苔にも錆にもまみれまくり、過去と未来を見比べたらまちがいなく未来のほうが短い歳になったいま、思う。
変わらない。
いまも、明け方に、ふと思う。こんなふうにふらふら生きてきて、極楽なんて行けるのか。
無理だな。
夜が白む。
クリストフは顔を上げて、柔らかく色を変えていく空を見つめる。
今日こそは、彼女を連れて帰ろうと思う。もとの世界へ。
昨日、彼女、帰るって言わなかったな、と思う。自分も言わなかった。でも――今日は、帰らないと。
その先のことはわからない。白紙だ。きっと日々は続いていくのだろう。何事もなかったかのように。
この一日はたぶん自分にとって永遠の一日で、自分は生涯、この一日をくりかえし思い出すことになるのだろう。
それが自分にとって苦痛なのか至福なのかわからない。たぶん両方だ。
それとも、忘れる日が来るのだろうか。苦痛でも至福でもなくなる日が。
そうなる前に、死にたいな、と思う。
夜が明けていく。
こういうとき、ギリシア神話だとかならず言う。
〈さて 暁が薔薇色の指をひろげるとき……〉
女神の白い指のさきにほのかに血の色がかよい、天の球面をピンチオープンしてくれているイメージだ。すごいよね。古代ギリシアにまだタッチパネルないのに。
(ん?)
その薔薇色の空を一瞬ちらりとかすめた光を見て、白狐はくんくんと鼻を鳴らした。
(稲妻?)
稲妻にしては不思議だ。空に走った亀裂が、そのまま残っている。
(わっ)
タイミングを同じくして派手にぐぐう……と鳴ったのは、彼のおなかだった。
無理もない。ゆうべ自販機でセブンティーンアイスを買って半分こして食べただけなのだ。正確に言うと例によってアリアがソーダ味か濃厚いちご味かでさんざん迷ったあげく、チョコモナカジャンボ@パリパリ食感がくせになるにしたんだけど、そんなことはどうでもいい。とにかく、育ち盛りの男の子にはきつい。
耳のすぐ下でとどろいた轟音に、アリアはぱっちりと目を開けた。
〈ご、ごめんっ〉
きつねバージョンのデメリットは、人語が発せられなくなることだ。聞きとれるし理解はできるけれど、発語できない。でも、このくらいの伝達ならお互い、表情を見ればわかる。
「おなかすいたね」とアリア。笑っている。「おはよ」
(うわー。「おはよ」って……可愛い……)
またもや感激のあまり涙が出そうになるクリストフだ。
そのとき、
(えっ?)
すっ、と幕が下ろされるように、何も見えなくなった。同時に何も聞こえなくなった。
(何?)
スタンガンほどの衝撃さえない。ごく小粒の弾が脳を貫通したかるい痛みだけ。それで四肢の感覚も消えた。
アリアの悲鳴も、肩をつかんで揺さぶる振動も、もうクリストフには届いていなかった。