私を月に連れてって (15)
文字数 1,265文字
クリストフは、全身から血の気が引いていくのを感じていた。
こんな――
こんな、残酷な。
(天女だ)
片想いどころか、そもそも自分ごときが恋していい相手ではないではないか。
見たこともない彼女がいた。
「恋しとよ
君恋しとよ ゆかしとよ
逢わばや見ばや 見ばや 見えばや」
逢いたい。あなたに逢いたい。逢いたい――
特定の誰かを想って歌っているのでは、もはやなかった。
いまの彼女はひとすじの透明な声でしかなく、その純粋で強烈な上昇気流に、あたりの草木の魂が吸い寄せられ、噴き上げられ、恍惚と踊りつつ昇っていくだけだ。
逢いたい。
彼女が歌っているのは、彼女の心ではなく、聴くものすべての心だった。
(あっ)
ふいに、彼女の足が地面を離れる。スカートが風をはらむ。
膝を折り、横座りの姿勢で、アリアはふんわりと空中に浮きあがった。
二メートルほど昇ったところで止まり、にこにこしてクリストフを見下ろす。
「できた」
は?
まさか――
教室で本気で歌うと、一人だけ浮いちゃうって――
ほんとに浮いちゃう
ことだったの?!奇跡はそこで終わらなかった。
彼女の歌声がやむのと同時に、はらはらと落ちてきた花びらや葉に混じって、
雨が、落ちてきたのだ。
水晶のような雨粒が、ぱらぱらと。
「できたできた。わーい、初めて地上で成功したよ、ちょこっとだけど」
空中に横座りのまま、手をたたいて喜んでいる。
さまざまなことが立てつづけにぱたぱたと、クリストフの中で腑に落ちていく。出来の良い姉のミランダさんが、一見ただのドジっ子ちゃんのこの妹を、なぜつねに身を投げ打って守ろうとしているのか。あまりに簡単な答えだった。
彼女もボディガードなのだ。兼、影武者要員。
兄者やおれと同じだ。
(この人は――この人は――)
(千人に一人の。
いや、千光年に一人の)
落ちつけクリストフ。千光年は距離だ。
なぜ正体不明の黒い力たちが、争って彼女を追いはじめたかもわかってきた。
この子を手に入れた者が、きっと何かのゲームの覇者になるのだ――
「あの、面白く、なかった?」
アリアは心配そうな顔になり、ふわふわと地面に降りてきた。(飛行石はつけてない。)
「あんまり盛り上がらなかったかなぁ。ごめんね。もっとざーっと降らせられたらよかったけど、あたしまだ下手っぴで」
「ねぇねぇ、どしたの佐藤くん? えー、な、なんで泣きそうになってるの? そんなにつまらなかった?」
(この人は……っ!)
自覚がないにもほどがあるだろう。ありとあらゆる意味で。全方位的に。360度。
どうしたらいいかわからなくて、クリストフは思わず膝をつき、アリアの手をとって自分の頬に押し当てた。
ちょっと中世騎士道の献身の誓いっぽいけど、そんなことはつゆ知らぬ、純和風の彼である。
なんとなくそうしてしまっただけだ。
何としてでも、と彼は思う。おれなんか、どうなっても。
この人を守らないと。
※
「恋しとよ……」『梁塵秘抄』第四八五番