私を月に連れてって (13)
文字数 1,410文字
坂の上に、月が出た。
この夢の里にも初めての夜が来るらしく、薄明かりの残る空に、淡い月が浮かんでいる。
ほの赤い山桜の葉と、白い花の重なり。
思わず、立ち止まって、見とれる。
「きれい」
「うん」
言葉のいらない時がある。
ふと、アリアが小声で歌った。
「われを頼めて 来ぬ男
角三つ
「なにそれ」
二人で笑う。
私に期待させて、来ないあの男。角三本生えた鬼になっちゃえ──。
「暁しずかに 寝覚めして
思えば涙ぞ おさえあえぬ」
明け方にふっと目が覚めると、いろいろ考えてしまって、つい涙が出てくる──。
「あるよね」
「あるある」
古そうな歌なのに、リアルで驚く。
「それ何?」
「
月を見ている。
「涙って不思議よね。海の味がする」
「うん」
「あたしね」
「うん」
「お姉ちゃんと違って、何やってもへただけど、歌うのと、踊るのは、好きなの」
「うん」
何やってもへただけどの部分も肯定しちゃってるぞクリストフ。まあいいか。
「あの……、歌と踊りなら、ちょっと自信あるの」
「うん」
ふんふん鼻歌を歌ったり、体を揺らして踊りたそうにしている彼女は、よく見かける。
「でもあの、あたし、ちょっと声、大きいのね。だから合唱の授業とかで、ぜったい本気で歌っちゃだめってお姉ちゃんにクギ刺されてて。浮くから」
「そうだったんだ」
「だから思いきり歌ったり踊ったり、できる所がなくて」
「そう」
いちばん好きで得意なことを禁じられるのは、辛いだろうな、とクリストフは思う。
「いま、ここ、誰もいないから」はずかしそうに言う。「ちょっとだけ歌ってもいい? 踊っても」
「ああ……」
「だめ?」
「足もう大丈夫なの」
「もう大丈夫。あのね」
「うん?」
「お礼っていうか」頬がほのかに染まっている。「お詫びっていうか。あの、いろいろ。でもあたし他にできることなくて。じゃなくて、本当は。お礼でもお詫びでもなくて。あたしは、こんな人ですっていうの、見てほしい、だけかもしれない。
やだ、もう、何言ってるのかわかんなくなっちゃった」
なんだそれは。
めちゃくちゃ嬉しいじゃないか。嬉しすぎるじゃないか。
生まれてきてよかったとか、もう死んでもいいとか思っちゃうレベルじゃないか。
まだ歌も踊りも見聞きする前から、感激のあまり絶句しているクリストフだ。
まあ、彼はデフォルトが絶句な男なので、そういう意味では通常運転と言える。
「サルサも得意なんだけど、ちょっと足が、あれだから、ゆっくりのにさせてね。今様なら」
ああ本当はまだ痛いんだ──
だが、もう、止められない感じの流れになっている。お互い。
「もったいない」
やっとのことで口にするクリストフだ。
「観客おれ一人なんて」
アリアが微笑む。「衣装も何もなくてごめんね」
「ううん」
気がつけばうっすらと冷えてきていて、肌寒い。二人とも初夏の日からリープしてしまったから、夜桜には薄着なのだ。
くしゅん、とアリアが小さなくしゃみをする。
「ごめんなさい」
(かっ……可愛い……!!)
まあ何やっても可愛い子だから当然くしゃみも可愛いんだけど、こんなことで気を失いかけていてどうするクリストフ。これから歌なんか聞いたら爆死しちゃうんじゃないか。
作者は大いに心配である。
※
「われを頼めて来ぬ男……」『梁塵秘抄』第三三九番
「暁しずかに寝覚めして……」同 二三八番