私を月に連れてって (16)

文字数 1,174文字

「どうしよう」
 ぽつりと、男がつぶやく。
「どうしたの?」
 女は、椅子の後ろからそっと腕を回して、彼の頬に口づける。

「手放したくなくなってしまった」

 紫檀の卓上に、スノードームが置かれてある。
 両手で包みこめるほどの大きさだ。

「また新しいおもちゃで遊んでいたの? ラリー」
「おもちゃじゃない。宝物だ」
「まあ」
「もちろんいちばんの宝物はきみだよ、ジェン」
「わかってる」

 女は微笑んで、薄絹の胸もとをそっと合わせる。

「あんまりおいたしちゃだめよ、ラリー。かわいそうでしょ。
 相手も生き物よ」
「わかってる」
「手放したくないって、どうするつもりなの?」

「聞いたか、さっきのを」男の目は少年のようにきらきら輝いている。「彼女は――彼女は――逸材だ。わたしの勘にくるいはなかった」
「どうするの」
「わたしの師匠にしたい。歌の」
「あなたがお弟子に?」
「笑うんだな」いきなり抱きすくめられて、女は愛らしい悲鳴をあげる。「わたしを笑っていいとでも思っているのか」
「だって治天の君のあなたが、あの少女に頭を下げて」
「関係ない。わたしは素人だ。だが、いちど歌うことの愉悦を知ってしまった者は、死ぬまで歌いつづけるものなんだよ、上手かろうと下手であろうと」
「愛と同じね」
「そう。そのとおり」

 クリスタルのスノードームの底に、先ほど舞い上がったきらめきが、ゆっくりと降り沈んでいく。
 桜の花びらと、雨粒だ。

「気をつけてね」白磁のような女の肌に、ほんのり赤みがさしている。「あなたは夢中になると、前後を忘れるから」
「よくわかっているね」
「心配なの」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないわ。歴代の天皇で、臣下に三度も幽閉されたのなんてあなたくらいよ」
「島流しじゃないもの、ノープロブレムだよ。むしろ堂々と引きこもりができてラッキーだったくらいだ」
「あなたって人は」

 黒々と濡れた目をわざと見はってみせてから、ジェニファーこと建春門院滋子(しげこ)は、白牡丹のように匂やかに笑った。

「ひさしぶりに、前後を忘れるくらい夢中になってみたくてね」
 嘆息する後白河院ローレンスだ。
「なぜ世の中には、戦などというものがあるのだろうね。音楽だけあればいいのに。美しいものしか見たくないし聞きたくないんだよ、わたしは」
 そっと藍色の紗をスノードームの上にかける。
 水晶玉の中の二人には、こうして夜がおとずれたわけだ。

 ローレンス、うっとりと詩を口ずさんだりしている。
「音楽が恋の心の糧ならば、続けてくれたまえ。
 飽きるほどわたしに聴かせてくれ、そうすれば
 このせつない飢えもおさまることだろう……」(シェイクスピア『十二夜』第一幕冒頭より)

雅仁(まー)くんてば)
 愛する夫に微笑みを返しつつも、後ろ頭にちょっと汗をかいているジェニファーだ。
(「なぜ戦があるのだろうね」って……その戦の大半は、あなたのせいではなくって?)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

波多野静/アリア(はたのしずか/ありあ)


この物語のヒロイン。明るく素直で天然。特技は歌とダンスと水泳。惚れっぽいのが玉にキズ。海霊族(ネレイド)。

佐藤四郎忠信/クリストフ(さとうしろうただのぶ/くりすとふ)


アリアの同学年生(クラスは違う)。長身で俊足だが、内気で目立つのが苦手。極端な無口。女子に対する耐性ゼロ。アリアに片思い中。水狐(ウォーターフォックス)。

波多野遥/ミランダ(はたのはるか/みらんだ)


アリアの姉。妹思いでクールかつ熱血。特技はアリアと同じく歌とダンスと水泳。アリアとよく似た容貌だが、5センチ背が高い。海霊族(ネレイド)。

水原九郎義経/クロード(みずはらくろうよしつね/くろーど)


アリアの同級生で恋人。小柄だが学年一の美貌で、すでに女子の半数は陥落させている(推定)。身体能力、とくに跳躍力に優れ、お気楽な言動で周囲をふりまわす。ベンジャミンたちから「御曹司」と呼ばれている。樹霊族(ドリュアード)。

武蔵弁慶/ベンジャミン(むさしべんけい/べんじゃみん)


アリアの同級生。筋骨たくましい大男だが、冷徹な知性派でもあり、クロードの暴走をつねに(かろうじて)食い止めている。じつは料理男子。人馬族(ケンタウロス)。

佐藤三郎嗣信/フロリアン(さとうさぶろうつぐのぶ/ふろりあん)


クリストフの兄。容貌・性格・身体能力ともにクリストフとよく似ている。ただし左肩から右脇腹にかけて貫通創あり(一度死亡)。ミランダに片思い中。火狐(ファイアーフォックス)。

水原由良頼朝/カミーユ(みずはらゆらよりとも/かみーゆ)


クロードの異母姉。アリアやクロードたちとは別の全寮制高校に学ぶ。男装して生活している。頭脳明晰、真面目で誠実だが、男心も女心もまったく解さないのが玉にキズ。樹霊族(ドリュアード)。

遠藤盛遠/文覚/バルタザール(えんどうもりとお/もんがく/ばるたざーる)


カミーユとは中学時代からの先輩後輩の仲。アリアとミランダとは江ノ電の中で知り合う。荒海を一喝して静める法力の持ち主。性格は豪快で、人情に厚い。水霊族(ナイアード)。

後白河雅仁/ローレンス(ごしらかわまさひと/ろーれんす)


法皇。この国の権力構造の最高位にありながら、一見ひょうひょうとした異端児の風貌を持つ。が、その本心は未知数。バルタザールとは熊野での修行仲間。龍族(ドラゴン)。

土佐昌俊/ジョバンニ(とさしょうしゅん/じょばんに)


ベンジャミンのかつての修行仲間。その後カミーユに仕えていたはずだったが、詳細不明の経緯によって刺客となり、謎のダイイング・メッセージを残して世を去る。土霊族(ノーム)。

畠山次郎重忠/ロバート(はたけやまじろうしげただ/ろばーと)


クロードとベンジャミンのかつての同級生。いまは転校してカミーユの高校にいる。清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑(かがみ)」と称される。見た目しゅっとしているのに力持ち。人馬族(ケンタウロス)。

北条政人/オーギュスト(ほうじょうまさと/おーぎゅすと)

カミーユの同級生。寮では隣室。そつのない完璧な優等生。影となり日陰となり(?)カミーユを支えるが、いまだに友達以上恋人未満の生殺しポジションに置かれている。水霊族(ナイアード)。

滋子/ジェニファー(しげこ/じぇにふぁー)

後白河院の女御。院号は建春門院。かの平清盛の義妹(妻の妹)。美貌と知性と気くばりを兼ね備えたパーフェクトなレディ。溺愛してくる夫を甘やかしつつ、さりげなく手綱をとっている。樹霊族(ドリュアード)。

横川覚範/セバスチャン(よかわかくはん/せばすちゃん)


比叡山延暦寺(天台宗)の荒法師。四郎忠信とは宿命のライバル(に今後なるはず)。山霊族(オレアード)。

阿野全成/アントワーヌ(あのぜんじょう/あんとわーぬ)


醍醐寺(真言宗)の荒法師。クロードの同母兄、カミーユの異母兄※。悪禅師(あくぜんじ)の異名を取る。謎の使命を帯びてアリアに近づく。樹霊族(ドリュアード)。

※史実では頼朝より年下ですが、このお話ではお兄さんに設定してあります。

金王丸/マルティノ(こんのうまる/まるてぃの)


土佐坊ジョバンニの弟。推定年齢十歳前後(ヒューマノイド換算)。聡明で献身的。思いがけない形で佐藤兄弟の前にあらわれ、ある重大な秘密を告げる。土霊族(ノーム)。化体はカナヘビ=草蜥蜴(グラスリザード)。

巴/パトリシア(ともえ/ぱとりしあ)


一人当千の女武者。ミランダの盟友となる。素はおちゃめで尽くし好き。恋人の木曽義仲を失い、彼の菩提を弔って生きていたが、正直たいくつしていたところだった。土霊族(ノーム)。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み