第四十話 患者は医者に隠し事をしてはいけないこと
文字数 1,430文字
「二年前に、神崎様の身体に起こった変化を詳しく教えていただけますか」
「天気の良い日に外へ出ることができなくなるほど日の光に弱くなった。昼間に無理矢理起きても、ひどく気だるく身体が重い。そのくせ夜になると、逆に五感が冴え渡り、全身に力が満ちるのを覚える」
「他には?」
「他にと申されると」
「血を吸いたくなるのではござませぬか。特に若い娘の」
「…………」
将夜は思わず息を呑んだ。
絶対に人に知られたくない秘事を言い当てられた驚愕もあったが、何より乙女の血を吸いたいなどという、聞くだにおぞましい欲求を気味悪がる様子もなく、志乃が淡々と口にしたからでもある。
一般に、人には病人に同情したり、哀れみを覚えたりすると同時に、その病を一種の穢 れとみなして忌 むところがある。
ところが、医者は違う。血塗れの人を見れば、己の手が朱に染まるのも厭わず傷口を探して止血し、なんとかその命を救おうとする。伝染病に罹った者がいれば、自らも感染する危険を冒して治療にあたる。故にこそ医術即ち仁術なりと言われるわけだが――。
志乃の目の真摯な輝きに、将夜は心を打たれた。
うら若い娘の身でありながら、自分に飛び掛かって項に歯を立てるやもしれぬ相手を前に恐れる気色もない。志乃が一度獣人に襲われており、南蛮魔族の恐怖を身をもって経験していることを考え合わせれば、驚嘆すべき意志の強さだと言える。
「頼りないかもしれませぬが、わたくしも医者のはしくれのつもりでおります。神崎様、御自分の症状について、どうか正直にお話し下さいませ。患者が医者に隠し事をしてはなりませぬ」
「そうしたい……つまり、血を吸いたいと感じたことは……確かに、ある。恥ずかしながら志乃殿にも感じる。いや、現に最前も感じていた。畜生道に堕 ちる日も遠からずと思えば、我が身ながらおぞましく、情ない」
「今は如何 ですか。まだわたくしの血をお吸いになりたいとお思いですか」
「唐柿のおかげなのだろうか、今は……感じない、ようだ」
「神崎様、御自分を責める必要はありませぬ。これは病です。唐柿の汁を服用することにより一定の効果が見られたという事実がそれを証明しております。むしろ、その衝動に耐えてこられた神崎様を、わたくしは立派な方だと思っております」
「志乃殿は、名医だな」
将夜は素直な目で相手を見つめ、心からそう言った。「そなたと話していると、不思議と気持ちが軽くなるようだ」
「そんな……名医だなどと……」
志乃は耳まで赤くなりながら、それでもはっきりした声で続けた。「わたくしは神崎様に命を救っていただいた身、何かお力になれることがあれば、と存じまして」
「いや、そのようなことを改まって言って下さるな」
将夜は照れた少年のように笑った。
この男が知っている女人 と言えば、ひさ江は妹だから別として、平次の店のおみよのような気さくなおちゃっぴいや、瑠璃のような男勝りな女剣士だけである。いかにも楚々とした風情でありながら、内に秘めた芯の強さを感じさせる志乃のような娘は初めてであった。その知的な光を湛えた双の眸で見つめられる度に、わけもなく緊張する。竹刀を持って強敵と対峙している時の気分に、何処か似ている。
ごほん、とひとつ空咳をしてから将夜は言った。
「ちょうど良い折なので伺うが、あの晩そなたを襲った獣人の正体は一体何なのであろうか。心当たりはおありか」
「おそらく、狼憑 きかと存じます」
躊躇 いなく答えた志乃に、逆に将夜が瞠目した。
「天気の良い日に外へ出ることができなくなるほど日の光に弱くなった。昼間に無理矢理起きても、ひどく気だるく身体が重い。そのくせ夜になると、逆に五感が冴え渡り、全身に力が満ちるのを覚える」
「他には?」
「他にと申されると」
「血を吸いたくなるのではござませぬか。特に若い娘の」
「…………」
将夜は思わず息を呑んだ。
絶対に人に知られたくない秘事を言い当てられた驚愕もあったが、何より乙女の血を吸いたいなどという、聞くだにおぞましい欲求を気味悪がる様子もなく、志乃が淡々と口にしたからでもある。
一般に、人には病人に同情したり、哀れみを覚えたりすると同時に、その病を一種の
ところが、医者は違う。血塗れの人を見れば、己の手が朱に染まるのも厭わず傷口を探して止血し、なんとかその命を救おうとする。伝染病に罹った者がいれば、自らも感染する危険を冒して治療にあたる。故にこそ医術即ち仁術なりと言われるわけだが――。
志乃の目の真摯な輝きに、将夜は心を打たれた。
うら若い娘の身でありながら、自分に飛び掛かって項に歯を立てるやもしれぬ相手を前に恐れる気色もない。志乃が一度獣人に襲われており、南蛮魔族の恐怖を身をもって経験していることを考え合わせれば、驚嘆すべき意志の強さだと言える。
「頼りないかもしれませぬが、わたくしも医者のはしくれのつもりでおります。神崎様、御自分の症状について、どうか正直にお話し下さいませ。患者が医者に隠し事をしてはなりませぬ」
「そうしたい……つまり、血を吸いたいと感じたことは……確かに、ある。恥ずかしながら志乃殿にも感じる。いや、現に最前も感じていた。畜生道に
「今は
「唐柿のおかげなのだろうか、今は……感じない、ようだ」
「神崎様、御自分を責める必要はありませぬ。これは病です。唐柿の汁を服用することにより一定の効果が見られたという事実がそれを証明しております。むしろ、その衝動に耐えてこられた神崎様を、わたくしは立派な方だと思っております」
「志乃殿は、名医だな」
将夜は素直な目で相手を見つめ、心からそう言った。「そなたと話していると、不思議と気持ちが軽くなるようだ」
「そんな……名医だなどと……」
志乃は耳まで赤くなりながら、それでもはっきりした声で続けた。「わたくしは神崎様に命を救っていただいた身、何かお力になれることがあれば、と存じまして」
「いや、そのようなことを改まって言って下さるな」
将夜は照れた少年のように笑った。
この男が知っている
ごほん、とひとつ空咳をしてから将夜は言った。
「ちょうど良い折なので伺うが、あの晩そなたを襲った獣人の正体は一体何なのであろうか。心当たりはおありか」
「おそらく、