第三十一話 小石川養生所は危険な場所であること
文字数 1,695文字
八代将軍吉宗の治世、後に〈赤ひげ先生〉として有名になる町医・
編笠姿で訪れた武士の姿に、門番は驚いた様子だったが、医師の名を告げて面会を申し込むと、しばしお待ちを、と言い残して奥に消えた。
ところが、次に奥から出てきた者を見て、今度は将夜が軽く戸惑うことになった。
「お待たせ致しました。どうぞこちらへ」
丁寧に頭を下げたのを見れば、十五、六の小娘である。
ふっくらとした頬にまだ幾らか子供らしさが残るが、数年後にはさぞ水際立った美貌になるだろうと思わせられる少女である。
物腰は柔らかいが、その切れ長の眸は冷ややかで、それが彼女の美しさに氷の如き印象を与えている。
将夜が訪ねてきた医師は仕事中だとかで、先に
薬膳所の中は思ったよりも清潔であったが、患者たちが皆同じ衣を着せられているせいか、どこか牢のような印象を与える。
案内されたのは、小さな部屋であった。
「こちらでお待ち下さいますよう」
一礼して、少女は去る。余計な口を挟む余裕を与えない挙措だった。
こうなっては腹を
刀を脇に置いて、黙然と座した。
障子が開け放たれている。部屋が面しているのは、庭ではなく、将夜の素人目にも薬園だとわかる。
秋もだいぶ深まってきたというのに、花も咲いている。が、あくまで薬の原料として栽培されているもので配色などは考慮の外なのだろう。どうやら異国の植物も混じっているらしく、その色彩が日本の秋の空気と合わず、毒々しく見えるものもあった。
(この養生所ができたばかりの時は、新薬の実験にされるという噂が流れ、誰も寄り付かなかったというが……)
それもあながち民草の
眺めていると目が痛んできたので、将夜は軽く瞼を閉じた。
幸い曇天なので、なんとかこうして出てこられたわけだが、やはり鉛でも入っているように身体が重い。
と、瞼を閉じた闇の中に、軽い足音を感じた。
少女らしい、小刻みな足の動きである。
薄く目を開くと、障子の陰に袖が僅かに翻った。
「
少女が捧げ持っているものを見て、将夜は訝しげに問うた。
「治療にいま少し
「いや、お構い下さるな。
普通なら昼の間は眠っているのであって、空腹も覚えない。まさか昼餉を出されるとは予想だにしていなかった。
しかし、少女はそんな言葉など耳に入らぬように静々と入ってきて、将夜の前に箱膳を据える。
すぐに出て行こうとしたが、
「待たれよ」
将夜が制止した。
「この、箸は?」
通常の木の箸ではない。金属が鈍い光を反射している。おそらく、材質は銀だ。
「養生所では、この箸を使うきまりでございます」
「下げていただこう」
「え」
「下げてもらおう」
にべもなく、将夜が繰り返した。
少女は暫く無言で将夜を見つめていたが、そのかたくなさを見てとったのであろう、一礼して膳を下げる――
刹那。
銀の箸を掴むと、そのまま電撃の速さで将夜の顔面に突き出したのである。
「くっ……」
ぎりぎりでかわしたと思ったが、右の頬を箸の先が掠めた。火箸でも押しつけられた如き疼痛が一瞬遅れてくる。
刀に手を伸ばしかけた時、
間髪を入れず箸を逆手に持ち替えた少女の第二撃が迫る。
(不覚――)
とっさに膳を蹴り上げ、空中で掴んで盾にした。什器が散らばり、耳障りな音を立てる。
ぶすり、と膳の盾を貫いて箸の先端が伸びてきた。とっさに膳の底部の
右頬の痛みは、既に耐えがたいほどになっている。膳を間にして
(ど、毒か……)
少女の唇が僅かに動いた。
「神崎将夜、昼間のお前はこの程度か」
視界が急激に霧に侵されてゆき、将夜の意識はそれきり途絶えた。