第四十六話 氷のくノ一は意表をつく主張をすること
文字数 2,535文字
「幻覚ではなく、あの男が狼と化すのをその目で確かめたと言うのじゃな」
「此度 は間違いございませぬ」
桜田御用屋敷。御庭番の根拠地である。
直接頭 である柘植の居室へ出向き、桔梗は今報告を終えたところである。
柘植は大きく頷くと、念を押すように、
「御老中は確かに、あの男に〈もはや為すに及ばず〉と申されたのか」
「はい。――が、〈内々に申し付けたる儀〉とは?」
「鉱脈だ。〈山の件〉と申されたのが、その証拠。御老中があの男に価値を見い出すとすれば、鉱脈の発見以外にない」
「やはり、そういうことでございましたか」
「あの男に高松藩を捨てるよう仕向けたのは、当時御側 御用取次 の職にあった田沼様じゃ。その年、彼奴 は伊豆で芒硝 を見つけ、とりあえず期待に応えてみせた」
芒硝とは、硝子 の原料となるものである。
柘植は続ける。
「しかし、御老中の目的はあくまで幕府財政立て直しのための金の採掘にあった。一任した中津川金山の試みが失敗に終わったことで、その評価は大きく損なわれたが、未だその繋がりが完全に断たれたわけではなく、上様が慎重になられた理由も正にそこにあったのじゃ。だが、もはやその憚りもなくなった」
源内が中津川に金脈があると主張し、採掘に着手したのが明和 三年(一七六六)だが、結局三年ほどで無残に失敗している。
柘植の声が、すっと低くなった。
「あの男が間違いなく狼憑きだと判明した折は、斬り捨て苦しからずとの上様の仰せじゃ」
桔梗の面にさっと緊張が走る。
御庭番は、将軍直属の隠密である。
これを確立したのは、八代将軍吉宗だと言われる。
江戸城本丸中奥の御休息 之間 の隣に、御駕籠台 という処がある。将軍が遠出 の時はここから駕籠で出立するので、そう呼ばれるのだが、御庭番が密命を受けるのも同じ場所であった。
御庭番というのは、表向きは御庭の掃除等をするのが仕事である。よって、将軍に謁見 する時には形式上、左手に竹箒 を携える決まりになっていた。
御駕籠台では、命令は将軍から直接下されるし、御庭番からの報告も当然、間に人を介さず直接申し上げる。
お膝元を騒がす獣人事件の解明を命じられていた御庭番は、この事件と近頃巷で評判の平賀源内なる者との間に何らかの関わりがあるらしいと、かなり前から探り出していた。
御庭番の存在は隠密であり、その仕事は所謂超法規的措置に当たる。源内が黒と決まれば、逮捕などという生温いことはしない。闇から闇に葬り去るまでだ。ただ、将軍家治は、確たる証拠があがるまではと暗殺命令は下さずにいたのだった。
世間では天才などと持て囃されていても、身分としては一介の浪人にすぎぬ。そんな源内に、そこまで慎重を期したのは、田沼意次の知遇を得ているという一事に尽きる。現在の意次の権勢の前には、将軍と雖 も多少は遠慮せざるを得ぬのである。
しかし、桔梗の働きなどによって、橋本町の源内邸に武器が蓄えられていること、また源内こそが獣人の頭目らしいという疑いが、極めて濃厚となった。
浪人が己の屋敷に武器を貯蔵しているだけでも、立派な罪になる。かつての由井 正雪 がいい例だが、御庭番としては、獣人事件を完全に終結させるためにも確たる証拠が欲しかった。
桔梗は前回、橋本町の源内の屋敷に侵入した折、狼化する源内を目撃した。だが、あの時は桔梗も痺れ薬に侵されており、薬の作用による幻覚の可能性を否定し切れずにいた。
そうした一抹の疑惑も、今は払拭 されたと言っていい。己の屋敷ならいざ知らず、幕府御用達 の由緒正しき茶屋の離れに、あやしい幻覚を見せる装置を設えることは、いくらなんでも不可能だろうし、実際あの菊也という女形も幻覚を見ているふうではなかった。
源内は、完全に黒とみなされたのだ。
「して、日取りは何時 でございますか」
表情は動かないが、桔梗の目に鋭い光が宿る。
「決行の日時は追って知らせるが、人数は既に定めている。三十人じゃ」
御庭番が三十人とは、殆ど合戦並みの規模である。大名相手というのではなく、ただ一人の浪人相手としては、特例中の特例であろう。
ところが、意外にも桔梗は小首を傾げた。
「三十人で、足りますでしょうか」
「足りぬと申すのか」
さすがの柘植も一瞬虚をつかれたようだった。
「源内は己の眷属を増やす術を心得ているものと見えます。斎木の娘を襲った獣人がそうであったように――」
奉行所でも、志乃を襲った獣人の身元を探ったが、結局無宿人ということで調べは終わっている。しかし御庭番は、あの無宿人が源内の元に出入りしていた事実を掴んでいた。源内とどんな関係にあったのかは定かではないが、
獣人の桁外れの強さを考えれば、それが何人いるかで戦況は大きく変わってくるに違いない。
「斎木の娘を襲った獣人が神崎に斬られた今、残る者があるとすれば、菊也とか申すあの役者か」
「はい」
桔梗が肯く。
人である時の状態から、獣化以後の強さを測ることはできない。志乃を襲った獣人にしても、元の姿は小柄で痩せぎすの男だった。
「他には?」
「それらしい者は今のところおりませぬ。ここ幾月かは、満月の夜に町中で襲われる事件もございませぬ」
「解せぬのは、そのことよ。過去の一連の事件を引き起こしていたのが、あの無宿人だったとすれば、神崎に斬られた後、同様の事件が起こらなくなったことに一応の説明はつく。その代わりが今の菊也だとするなら、何故菊也は満月の夜に獣化して人を襲わぬのか」
「僭越ながら、思いついたことがございます」
柘植は、ほうと言うように眉を上げた。「聞こう」
「源内が狼憑きの頭目である点に、もはや疑いの余地はありますまい。あの男が、上様のお膝元に要塞の如き屋敷を構えた目的は何なのか。それを解く鍵は、獣化した無宿人が神崎将夜に斬られた時に発した言葉にあるのではないか、と」
「異国の言葉だと聞いておるが……」
「〈きんぐ・りゅかおおん〉。この〈きんぐ〉というのは、紅毛人の言葉で〈王〉の意味を表す由にございます」
柘植がかっと目を見開いた。
「王だと! それは聞き捨てならん。桔梗、その方、何故そのようなことを存じておるのだ?」
「実は――」
桔梗は、声を潜めて語った。
「
桜田御用屋敷。御庭番の根拠地である。
直接
柘植は大きく頷くと、念を押すように、
「御老中は確かに、あの男に〈もはや為すに及ばず〉と申されたのか」
「はい。――が、〈内々に申し付けたる儀〉とは?」
「鉱脈だ。〈山の件〉と申されたのが、その証拠。御老中があの男に価値を見い出すとすれば、鉱脈の発見以外にない」
「やはり、そういうことでございましたか」
「あの男に高松藩を捨てるよう仕向けたのは、当時
芒硝とは、
柘植は続ける。
「しかし、御老中の目的はあくまで幕府財政立て直しのための金の採掘にあった。一任した中津川金山の試みが失敗に終わったことで、その評価は大きく損なわれたが、未だその繋がりが完全に断たれたわけではなく、上様が慎重になられた理由も正にそこにあったのじゃ。だが、もはやその憚りもなくなった」
源内が中津川に金脈があると主張し、採掘に着手したのが
柘植の声が、すっと低くなった。
「あの男が間違いなく狼憑きだと判明した折は、斬り捨て苦しからずとの上様の仰せじゃ」
桔梗の面にさっと緊張が走る。
御庭番は、将軍直属の隠密である。
これを確立したのは、八代将軍吉宗だと言われる。
江戸城本丸中奥の
御庭番というのは、表向きは御庭の掃除等をするのが仕事である。よって、将軍に
御駕籠台では、命令は将軍から直接下されるし、御庭番からの報告も当然、間に人を介さず直接申し上げる。
お膝元を騒がす獣人事件の解明を命じられていた御庭番は、この事件と近頃巷で評判の平賀源内なる者との間に何らかの関わりがあるらしいと、かなり前から探り出していた。
御庭番の存在は隠密であり、その仕事は所謂超法規的措置に当たる。源内が黒と決まれば、逮捕などという生温いことはしない。闇から闇に葬り去るまでだ。ただ、将軍家治は、確たる証拠があがるまではと暗殺命令は下さずにいたのだった。
世間では天才などと持て囃されていても、身分としては一介の浪人にすぎぬ。そんな源内に、そこまで慎重を期したのは、田沼意次の知遇を得ているという一事に尽きる。現在の意次の権勢の前には、将軍と
しかし、桔梗の働きなどによって、橋本町の源内邸に武器が蓄えられていること、また源内こそが獣人の頭目らしいという疑いが、極めて濃厚となった。
浪人が己の屋敷に武器を貯蔵しているだけでも、立派な罪になる。かつての
桔梗は前回、橋本町の源内の屋敷に侵入した折、狼化する源内を目撃した。だが、あの時は桔梗も痺れ薬に侵されており、薬の作用による幻覚の可能性を否定し切れずにいた。
そうした一抹の疑惑も、今は
源内は、完全に黒とみなされたのだ。
「して、日取りは
表情は動かないが、桔梗の目に鋭い光が宿る。
「決行の日時は追って知らせるが、人数は既に定めている。三十人じゃ」
御庭番が三十人とは、殆ど合戦並みの規模である。大名相手というのではなく、ただ一人の浪人相手としては、特例中の特例であろう。
ところが、意外にも桔梗は小首を傾げた。
「三十人で、足りますでしょうか」
「足りぬと申すのか」
さすがの柘植も一瞬虚をつかれたようだった。
「源内は己の眷属を増やす術を心得ているものと見えます。斎木の娘を襲った獣人がそうであったように――」
奉行所でも、志乃を襲った獣人の身元を探ったが、結局無宿人ということで調べは終わっている。しかし御庭番は、あの無宿人が源内の元に出入りしていた事実を掴んでいた。源内とどんな関係にあったのかは定かではないが、
のっぺりした美男
であったそうだ。獣人の桁外れの強さを考えれば、それが何人いるかで戦況は大きく変わってくるに違いない。
「斎木の娘を襲った獣人が神崎に斬られた今、残る者があるとすれば、菊也とか申すあの役者か」
「はい」
桔梗が肯く。
人である時の状態から、獣化以後の強さを測ることはできない。志乃を襲った獣人にしても、元の姿は小柄で痩せぎすの男だった。
「他には?」
「それらしい者は今のところおりませぬ。ここ幾月かは、満月の夜に町中で襲われる事件もございませぬ」
「解せぬのは、そのことよ。過去の一連の事件を引き起こしていたのが、あの無宿人だったとすれば、神崎に斬られた後、同様の事件が起こらなくなったことに一応の説明はつく。その代わりが今の菊也だとするなら、何故菊也は満月の夜に獣化して人を襲わぬのか」
「僭越ながら、思いついたことがございます」
柘植は、ほうと言うように眉を上げた。「聞こう」
「源内が狼憑きの頭目である点に、もはや疑いの余地はありますまい。あの男が、上様のお膝元に要塞の如き屋敷を構えた目的は何なのか。それを解く鍵は、獣化した無宿人が神崎将夜に斬られた時に発した言葉にあるのではないか、と」
「異国の言葉だと聞いておるが……」
「〈きんぐ・りゅかおおん〉。この〈きんぐ〉というのは、紅毛人の言葉で〈王〉の意味を表す由にございます」
柘植がかっと目を見開いた。
「王だと! それは聞き捨てならん。桔梗、その方、何故そのようなことを存じておるのだ?」
「実は――」
桔梗は、声を潜めて語った。