第七十五話 弥生と志乃は静かに語り合うこと

文字数 3,636文字

「お加減は、いかがでございますか」
「おかげで、とてもいいですよ。ありがとう」
 声はまだ弱々しいが、顔色は見違えるほど良くなった。眉目(びもく)のあたりが、将夜とよく似ている。
 蒲団の上に起き直ろうとする。志乃が慌ててその背中を支えた。
 弥生である。
 年が明け、既に三が日も過ぎている。
「寒くはありませぬか。障子をお閉め致しましょうか」
「いいえ。こうして風を感じていられるのが、たまらなく心地よいのです」
 志乃の手に、弥生はそっと自分の手を重ねた。
「志乃さん。あなたこそ。もう大丈夫なのですか。源内の屋敷でひどい目に遭ったのでしょう?」
 志乃の目にみるみる涙が滲む。
「そんな……。あのような場所に十三年も閉じ込められていた弥生様が、わたくしをお気遣い下さるのですか」
「いいえ、斎木殿には、感謝しているのです。あの人は自分のできる範囲では融通をつけてくれていました。そうでなければ、とっくに命はなかった筈です」
 十三年間穴蔵に閉じ込められていた弥生の身体は、自分の力では起き上がれないほど衰弱し切っていたが、生きていたこと自体が奇蹟だと言える。
 もし斎木がいなかったら、万が一にも生き永らえる可能性はなかったと弥生は言うのである。
上からは見えないが、井戸の底は横に掘り広げられており、かなりの広さがあった。灯りも(しつら)えてあった。壁には、脱出は不可能でも空気が抜けるに十分な穴が穿(うが)たれてあり、地中からの瘴気によって身体が蝕まれるのを防ぐこともできた。
 斎木はそこに紅毛人らが使う〈べっど〉を参考に作った台を運び込み、更にその上に蒲団を敷いて、弥生の体が直接湿り気のある地面に触れないようにしていた。日の光に当たらぬことで欠乏する栄養を補給するため南瓜を食事に多く加えるなど、医師らしい配慮もあった。
 幕府が弥生の処分を決めかねている以上、とりあえずは生かしておく方が得策だと斎木が打算的に考えていたのは事実だろうが、それにしてもここまでの細かい気配りをしていたとは、志乃にも少し意外ではあった。
(父上は弥生様の中に、かつて御自分が学問に捧げた純粋な想いを見出しておられたのではないか)
 そう思うと、少し救われる気持ちになる。
 火事で両親を失い、お救い小屋にいた自分は斎木に拾われた。
『利発そうな目をしているな、学問は好きか』
 あの時の優しげな声は、まだ耳の底に残っている。
『ならば私の処へ参れ。たくさん書物があるぞ』
 差し出された手をこちらから握り返さなければ、今の自分はなかった。
 騙され、利用され、危険な目に遭わされたのは事実だが、それだけであったとはどうしても考えられない。
 いや、考えたくないのか。
 この世の現実に絶望し、心に闇を抱えていた斎木だが、学問に対する敬虔な気持ちだけは偽りではなかったのだ、と。
 そして、その学問によって、やはり斎木と自分は繋がっていたのだ、と。
 そう信じたいのだ。
 町方に捕えられたという話を最後に何の音沙汰もない斎木だが、少なくとも自分だけは待っていなければならぬと密かに思い定めている志乃だった。

 ただ、それはそれとして――
 弥生のことだ。
 いくら斎木が医師の立場から特別の配慮を施したとは言え、
何時(いつ)出られるとも知れぬ状況で、本当に、よくお諦めにならず……」
 志乃は、弥生が出口の見えぬ長い長い闇の中でいかに強靭に、且つ不屈の精神力で生き抜いたか、それが一体どれほどの努力を要するものであったかと思うと、何か言おうとしてもすぐ胸が塞がって、あとはただ涙が頬を伝うばかりなのである。
「志乃さん、お願いだからもう泣かないで。不思議に思われるかもしれませんが、いつか将夜が助けに来てくれる、いつかわからないが、きっと来てくれる。そんな気がしていたんです。どんなに小さくとも、希望の灯さえ燈っていれば心は死なないものです。たとえどんな深い闇の中にあっても」
「心は死なない、ですか」
 志乃は涙を拭うと、弥生の顔をじっと見つめた。頬は痛々しくこけているが、その微笑には透き通るような美しさがある。
「将夜様から伺ったのですが」
 志乃はふと思い出したように言った。いつの間にか、〈神崎様〉が〈将夜様〉に変わっている。
「袱紗の中に弥生様の書付が縫い込まれてあったとか。将夜様の身体に変化が起こることを知っていらしたのですね」
 弥生は希望という言葉で表現したが、ただ当てもない望みを繋いでいたわけではなかった。
 布石は既に打たれていた。十三年前に。
「ええ。知っていました。十八になる時、〈だんぴいる〉の特徴が顕著に現れる。そう教えられていましたから」
「それは、どなたに……」
「将夜の真の父親です」
 志乃は思わず瞠目する。弥生はさりげなく言っているが、その父親とは、魔族の中でも最強を誇るという〈ばんぱいあ〉なのである。
「ですから、それまでに身体を鍛えておく必要がある。体質の変化が起きた時、その器たる身体が変化に耐え得るものでなければならぬ。士道館の楢井重蔵様の元で剣術を習うように、と。この言葉は、将夜を引き取っていただく時にわたしから密かに与一郎殿にお伝えしたのです」
「将夜様の御父上は、何故楢井様のことを御存知だったのでしょう」
「楢井様はお若い頃、武者修行のために全国を巡っておられたそうです。長崎では唐人や阿蘭陀人の武芸者とも手合わせをしたことがあるとかで、あのひともその道は好きなものですから……。自然に知り合ったのでしょう」
 やわらかく、志乃は微笑んだ。
 たとえ相手がどのような存在であっても、一度心を通わせてしまえば、女は世間の目など気にはしない。世間の評価に恐々として、自分に心から尽くしてくれる相手を疎んじたりするのは男の方である。志乃も女の身だけに、弥生がごく自然に〈あのひと〉と呼ぶのを聞いて、瞬時に弥生と将夜の父との関係を理解したのだった。
「将夜様の御父上も、武術を?」
「ええ。日本の剣術は世界にも類を見ない奥妙なものだというのが口癖で、魔力を封印してまで稽古に励んでおりました。周りからは変わった紅毛人だと見られていたようです」
 魔族と言っても、普段は人の姿をしている。まして〈ばんぱいあ〉は貴族と呼ばれる程上品な外見を有しているらしい。美しい長身の紅毛人は、さぞ長崎の町で人目を惹いたことであろう。
「素敵な方だったのでございますね」
「まあ、志乃さんたら」
 弥生は少女のように頬を染めた。
「あのひとはこの国を愛しておりました。だから、長崎の地に騒擾(そうじょう)を巻き起こそうとした〈りゅかおおん〉に闘いを挑んだのです。ただ、狼憑きは群れを作ることに()けており、既に魔軍が形成されつつありました。あのひとは彼らに壊滅的な打撃を与えることには成功しましたが、自身の魔力の損耗も甚だしく、それを恢復させるため一旦人間(じんかん)より姿を消し、ある処に隠棲したのです」
「それでは、将夜様の御父上は――」
「はい、生きております。元々、〈ばんぱいあ〉は不死の身(あんでっど)なのですから」
「魔力が失われただけで、死に至るわけではないと――ならば、そのお力は何時(いつ)蘇るのでございますか」
「わたしにも、そこまではわかりません。ただ、〈りゅかおおん〉の復活の方が自分の魔力の恢復よりはやいと申しておりました。故にこそ、魔族を倒す力を持つ〈だんぴいる〉に後事を託そうとしたのです。復活した〈りゅかおおん〉が、次は上様の御膝元で事を起こすであろうことまで、あのひとは見通しておりました」
「――ということは、その、将夜様は最初から……」
 魔族と戦うことを運命づけられていたと言うのか。
 だが、志乃もさすがにそこまでは言葉に()し得ない。抉られるように胸が痛む。
「将夜には……(むご)い運命を、背負わせて、しまいました……」
 弥生の双の眸にも、深い憂いが溢れている。「いくらこの国を魔族の手から守るためとは申せ――」
 当時の侍にとって、忠義は何より優先されるべきものであったが、それはあくまで己の主君に限定されたものである。赤穂義士が忠臣と言っても、所詮は主君の私怨を(すす)ごうとしたに過ぎない。
 か弱い女の身でありながら、弥生が為したのは、世の忠臣たちが束になっても叶わぬ偉大な行為だったのだ。
 その功に対し、幕府はいかなる仕打ちで報いたのか。
 ひどい。あまりに、ひどい。
 涙ながらにそう訴える志乃の肩を、弥生はやさしく撫でながら、
「もうよいのです。全ては過ぎたことです」
 とだけ繰り返した。
 志乃が落ち着くのを待って、弥生はこんなことを言った。
「でもね、志乃さん。もしわたしがこの国のために我が身を人身(ひとみ)御供(ごくう)として捧げたと言うなら、それは違います。最終的には、あのひとのわたしに寄せる思いが(まこと)であると信じたからこそ、身を任せたのです。心に添わぬ殿御なら、いくらこの国の一大事と脅されても御免蒙ります」
 静かに微笑む弥生は、志乃が思わず泣き腫らした目を瞠るほど無垢そのものであり、同時に眩ゆい程の神々しさを湛えていた。
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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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