第五話 おみよの襟から覗く部分がけしからぬこと
文字数 1,955文字
店の主・平次の視線が自分に向けられている。
将夜には、一瞬そう思われた。
この平次という男、決して無愛想というわけではない。言葉遣いは丁寧だし、腰も低い。四十を越えた親仁 だが、なかなか渋い男前である。
ただ、その顔を見た者が一瞬息を呑むのは、左の頬に走っている大きな傷跡。あながち容姿がいいだけに目立ち、なんとも言えぬ凄みを添えている。
「あの傷は刀傷だぜ。あの親仁、元は渡世稼業に違いねェ。今は足を洗って堅気暮らしってとこだろう」
「ひょっとすると凶状持ちなんじゃねェか。真夏でも肌脱ぎになっているのを見たことがないぜ。あれは左腕の刺青を隠すための――」
客たちがひそひそそんな話をしているのを、将夜は小耳に挟んだことがある。ここで〈刺青〉というのは凶状持ちの証に、左の上腕部に輪状に入れられるもののことだ。
一般に、江戸っ子を以って任じている町人たちは、何かというと片肌脱ぎになったり、諸肌脱ぎになったりしたがる。あばらの浮き出た裸などいきがって見せられても、実際のところ迷惑なだけで、平次が肌を見せたがらないのはむしろ好ましい、と将夜などは思っている。
ただ、その只者ならざる面構えを見るにつけ、この親仁に人知れぬ過去があるという推量も、妙に腑に落ちてしまう。
とにかく、平次が睨みを利かせているおかげで、酒を出す店にしては珍しく、将夜の知る限り喧嘩沙汰の起こったためしはなかった。
「お造りでもお出ししましょうか」
まるでたった今、将夜の視線に気づいたような声で平次が訊いてきた。
向こうがおれを見ていたように思ったのは気のせいだったか、と思いながら将夜は慎重に答える。
「い、いや、あいにくちょいと腹具合がよくなくてね。生物 はまた今度にさせてもらうよ」
「さいでございますか。では焼物などはいかがですか」
「いや、焼物も今度に……」
「焼物といっても、鴫焼 ですが」
「なんだ、鴫焼か。そいつをはやく言ってくれ。無論賞味させてもらう」
将夜は破顔したが、内心では懐の中身と相談の結果、ほっと胸を撫で下ろしている。
やがて鴫焼が、おみよの手で運ばれてくる。
鴫焼と言っても、鳥ではない。縦半分に割いた茄子に油をつけて焼いたもので、味噌だれを付けて食べる。俳句では夏の季語になるが、それはあくまで暦の上の話。江戸っ子にとって初茄子の味わいは、紛れもなく秋の訪れを知らせるものなのである。
焦げ目の付いた皮の内側の、白くふっくらとした実が、油でつややかに光っている。旨そうというより、いっそ艶かしい。
思わず唾を呑んだ将夜が、ふと目を上げると、おみよがこちらに屈み込んでいた。頬の仄 かに上気した若い娘の顔の、その意外な近さに将夜は一瞬戸惑った。
しかも、慌てて視線を下げた将夜は、逆におみよの襟の合わせ目を覗き込む形になってしまう。その奥の膨らみが、あどけない顔とは不釣合いなほど、しっかりした張りを湛えている様まで垣間見えたのである。
「…………!」
不意に、将夜の頭の中で何かが弾けた。それは強烈な光源に似て、たちまち将夜の視野の中に白く広がる。
(お、おれは……どうしたというのだ?)
どこかで手を叩く音がし、はっと将夜は我に返った。
「みよちゃん、熱燗もう一つ頼むぜ」
若い町人だった。おみよに岡惚 れでもしているのか、敵意の籠もった目で将夜を睨んでくる。
「おい、みよ坊。お客さんが、お呼びだ」
さりげなく言ったつもりなのに、口が乾き切っているせいか、妙に罅 割れた声音になった。
おみよはちょっと唇を尖らせたが、
「はい、ただ今」
町人の方へ振り返った顔は、既に看板娘の笑顔に戻っている。
「一つおまけしておいたから、ゆっくり食べてね」
将夜の耳元にすばやい囁きを残して離れてゆく。
しかし、将夜はせっかくの鴫焼を味わうどころではなく、茫然とおみよの後姿を見送るばかりだった。
「おい、何を呆 けておる? せっかく儲け話に一口乗せてやろうと言うに。合力 したくないなら無理強いはせぬ。――しかし、見ていろ! 今におれは、部屋の押入れで椎茸の栽培に成功した初めての男として、吉原で豪遊する身分になってみせる。その時後悔しても後の祭だからな!」
口角泡を飛ばして力説する宗助の声は、全く将夜の耳に入っていなかった。
(おれはさっき、無性におみよの項 を噛みたくなった。何故だ?)
耳元で囁かれた時など、心ノ臓が早鐘を打ち、眩暈 がしたほどだ。
若い娘特有の甘やかな膚 の匂いとは異なる。より蠱惑的な、濃厚な芳香。とっさに台の縁を両手で掴まなければ、己を抑えられず、本当におみよを襲っていたやもしれぬ。
(一体何をするつもりだったのだ! お、おれは……)
己が己でなくなってしまう。そんな底知れぬ不安に、背後から冷たく抱きすくめられた気がした。
将夜には、一瞬そう思われた。
この平次という男、決して無愛想というわけではない。言葉遣いは丁寧だし、腰も低い。四十を越えた
ただ、その顔を見た者が一瞬息を呑むのは、左の頬に走っている大きな傷跡。あながち容姿がいいだけに目立ち、なんとも言えぬ凄みを添えている。
「あの傷は刀傷だぜ。あの親仁、元は渡世稼業に違いねェ。今は足を洗って堅気暮らしってとこだろう」
「ひょっとすると凶状持ちなんじゃねェか。真夏でも肌脱ぎになっているのを見たことがないぜ。あれは左腕の刺青を隠すための――」
客たちがひそひそそんな話をしているのを、将夜は小耳に挟んだことがある。ここで〈刺青〉というのは凶状持ちの証に、左の上腕部に輪状に入れられるもののことだ。
一般に、江戸っ子を以って任じている町人たちは、何かというと片肌脱ぎになったり、諸肌脱ぎになったりしたがる。あばらの浮き出た裸などいきがって見せられても、実際のところ迷惑なだけで、平次が肌を見せたがらないのはむしろ好ましい、と将夜などは思っている。
ただ、その只者ならざる面構えを見るにつけ、この親仁に人知れぬ過去があるという推量も、妙に腑に落ちてしまう。
とにかく、平次が睨みを利かせているおかげで、酒を出す店にしては珍しく、将夜の知る限り喧嘩沙汰の起こったためしはなかった。
「お造りでもお出ししましょうか」
まるでたった今、将夜の視線に気づいたような声で平次が訊いてきた。
向こうがおれを見ていたように思ったのは気のせいだったか、と思いながら将夜は慎重に答える。
「い、いや、あいにくちょいと腹具合がよくなくてね。
「さいでございますか。では焼物などはいかがですか」
「いや、焼物も今度に……」
「焼物といっても、
「なんだ、鴫焼か。そいつをはやく言ってくれ。無論賞味させてもらう」
将夜は破顔したが、内心では懐の中身と相談の結果、ほっと胸を撫で下ろしている。
やがて鴫焼が、おみよの手で運ばれてくる。
鴫焼と言っても、鳥ではない。縦半分に割いた茄子に油をつけて焼いたもので、味噌だれを付けて食べる。俳句では夏の季語になるが、それはあくまで暦の上の話。江戸っ子にとって初茄子の味わいは、紛れもなく秋の訪れを知らせるものなのである。
焦げ目の付いた皮の内側の、白くふっくらとした実が、油でつややかに光っている。旨そうというより、いっそ艶かしい。
思わず唾を呑んだ将夜が、ふと目を上げると、おみよがこちらに屈み込んでいた。頬の
しかも、慌てて視線を下げた将夜は、逆におみよの襟の合わせ目を覗き込む形になってしまう。その奥の膨らみが、あどけない顔とは不釣合いなほど、しっかりした張りを湛えている様まで垣間見えたのである。
「…………!」
不意に、将夜の頭の中で何かが弾けた。それは強烈な光源に似て、たちまち将夜の視野の中に白く広がる。
(お、おれは……どうしたというのだ?)
どこかで手を叩く音がし、はっと将夜は我に返った。
「みよちゃん、熱燗もう一つ頼むぜ」
若い町人だった。おみよに
「おい、みよ坊。お客さんが、お呼びだ」
さりげなく言ったつもりなのに、口が乾き切っているせいか、妙に
おみよはちょっと唇を尖らせたが、
「はい、ただ今」
町人の方へ振り返った顔は、既に看板娘の笑顔に戻っている。
「一つおまけしておいたから、ゆっくり食べてね」
将夜の耳元にすばやい囁きを残して離れてゆく。
しかし、将夜はせっかくの鴫焼を味わうどころではなく、茫然とおみよの後姿を見送るばかりだった。
「おい、何を
口角泡を飛ばして力説する宗助の声は、全く将夜の耳に入っていなかった。
(おれはさっき、無性におみよの
耳元で囁かれた時など、心ノ臓が早鐘を打ち、
若い娘特有の甘やかな
(一体何をするつもりだったのだ! お、おれは……)
己が己でなくなってしまう。そんな底知れぬ不安に、背後から冷たく抱きすくめられた気がした。