第二十一話 〈美人局〉は〈びじんきょく〉でなく〈つつもたせ〉と読むこと
文字数 1,274文字
「そうですか。楢井様の御紹介で」
浩兵衛 と名乗った老人は額越 しに、じろっと将夜を見上げた。
穴熊のような小さな目が、なんとなく狡猾そうな印象を与える老人である。
――神田 紺屋町 。
後年、安藤 広重 の『名所江戸百景』でも描かれた町で、その名の通り紺屋、つまり染色業者が軒を並べていた。
晴れた日には、干されている色鮮やかな布が風に翻ったり、町を流れる藍染川 に晒される布が水面できらきら輝いたりする。独特の情緒のある町だった。
ただ、時刻的にはとっくに日が昇っているはずなのに、空はどんよりと厚い雲に閉ざされている。
将夜にとっては好天気であるが、直之の紹介状を携えて訪ねた長屋の家主 までどんよりしているのは、正直あまりありがたくない。
「楢井様には、以前お世話になったことがありましてね」
「そうらしいですな。直之殿を用心棒として雇われたと――」
「どこまでお聞き及びで」
「いや、詳しい話は存ぜぬのだが、なんでもひと月ほど用心棒をしていたとか」
無論、嘘である。
将夜は、直之から事のいきさつを全て聞いている。
この浩兵衛、紺屋の仕事はとっくの昔に息子に譲っており、今は家主として店の裏の長屋に住む店子たちの世話を焼いているだけの楽隠居に見えるが、実はこれでなかなか脂 が抜け切っていない。つい数年前、三十路 を幾つか過ぎたばかりの婀娜 っぽい女を妾 に囲ったのが騒動の始まりだった。
女には、別れた亭主がいた。その亭主というのが非常に気性 の荒い男で、少しでも気に入らないことがあるとすぐ女房を打 ったり蹴ったりする。おかげで女の身体には生傷 の絶え間がなく、逃げ出すようにして漸く離縁した――と、浩兵衛は聞かされていた。
その女を囲って暫くは何事もなく過ぎたが、どこで洩れたか別れた亭主の知るところとなった。妾宅 へ赴く途中、浩兵衛はその元亭主に待ち伏せされ、あわや刃傷 沙汰 という事態にまで立ち至ってしまったのである。
浩兵衛としては、せっかく囲った女を手放したくはない。しかし、いくら老い先短い身とは言え、命はやはり惜しい。そこで身辺警護の用心棒として雇われたのが、直之だったというわけなのだ。
士道館が道場として軌道に乗り出したのは、ようやく最近になってからで、それまでは何か副業でもやらなければ活計 が成り立たなかったのだ。
直之は最初 から、女とその元亭主なる男が切れていず、二人申し合わせた上での狂言だと見抜いていた。
この事件は、直之が女とその男の密会の現場を押さえ、一件落着となった。だが、浩兵衛にしてみれば、いい年をして美人局 に引っ掛かったわけであり、甚だ面目ない話ではあった。
故に老人は、直之が何処まで将夜に話しているか気になっているのだ。
少しの間、将夜を探るように見つめていた浩兵衛だったが、
「よろしゅうございます。御案内致しましょう」
よっこらしょと呟きながら立ち上がり、曲がった腰の後ろで手を組みながら、もぞもぞと草履を足に通す。
(こんな老人が、よく三十過ぎの女など囲おうとしたものだ)
将夜は感心するような、呆れるような思いで、その後に従った。
穴熊のような小さな目が、なんとなく狡猾そうな印象を与える老人である。
――
後年、
晴れた日には、干されている色鮮やかな布が風に翻ったり、町を流れる
ただ、時刻的にはとっくに日が昇っているはずなのに、空はどんよりと厚い雲に閉ざされている。
将夜にとっては好天気であるが、直之の紹介状を携えて訪ねた長屋の
「楢井様には、以前お世話になったことがありましてね」
「そうらしいですな。直之殿を用心棒として雇われたと――」
「どこまでお聞き及びで」
「いや、詳しい話は存ぜぬのだが、なんでもひと月ほど用心棒をしていたとか」
無論、嘘である。
将夜は、直之から事のいきさつを全て聞いている。
この浩兵衛、紺屋の仕事はとっくの昔に息子に譲っており、今は家主として店の裏の長屋に住む店子たちの世話を焼いているだけの楽隠居に見えるが、実はこれでなかなか
女には、別れた亭主がいた。その亭主というのが非常に
その女を囲って暫くは何事もなく過ぎたが、どこで洩れたか別れた亭主の知るところとなった。
浩兵衛としては、せっかく囲った女を手放したくはない。しかし、いくら老い先短い身とは言え、命はやはり惜しい。そこで身辺警護の用心棒として雇われたのが、直之だったというわけなのだ。
士道館が道場として軌道に乗り出したのは、ようやく最近になってからで、それまでは何か副業でもやらなければ
直之は
この事件は、直之が女とその男の密会の現場を押さえ、一件落着となった。だが、浩兵衛にしてみれば、いい年をして
故に老人は、直之が何処まで将夜に話しているか気になっているのだ。
少しの間、将夜を探るように見つめていた浩兵衛だったが、
「よろしゅうございます。御案内致しましょう」
よっこらしょと呟きながら立ち上がり、曲がった腰の後ろで手を組みながら、もぞもぞと草履を足に通す。
(こんな老人が、よく三十過ぎの女など囲おうとしたものだ)
将夜は感心するような、呆れるような思いで、その後に従った。