第四十三話 二人の女は去り、将夜は頭を掻き毟ること
文字数 1,581文字
「おい、どうしたのだ? いきなり飛び出したりなどして」
肩を叩かれて、瑠璃はびくっと震えた。
藍染川の端 の柳の下に、瑠璃はぽつねんとしゃがみ込んでいたのである。
だから今は、将夜を見上げる形になる。
この辺りは町の灯も殆どなく、空に浮かぶ半分欠けた月が静かに水面を照らしているばかりだ。
仄かな水の照り返しを受けた顔が、雨に打たれた仔猫のようで、将夜はなぜかひどく狼狽する。
「こんな暗がりにいるやつがあるか。探すのに骨が折れたぞ」
瑠璃はぷいと水面の方に向き直る。
この姿勢では、瑠璃の表情はわからない。
「誰が探してくれと言った。大きなお世話だ」
「何故矢庭 に怒った?」
「怒ってなど、おらぬ」
(あれで怒ってないと言うなら、一体どうやったら怒ったことになるのだ)
という言葉を、将夜は辛うじて喉の奥に呑み込む。
言葉の接 ぎ穂 を失って、将夜も黙り込む。岸を洗う水音が、急に耳についた。
「何を笑っておるのだ、神崎将夜」
「おれは笑ってなどいない」
「ふん、どうだか」
「疑うなら、おれの顔を見てみろ」
「きれいだな、志乃どのは」
不意に、そしてぽつりと、瑠璃が言った。
「そ、そうかな……」
将夜は曖昧に語尾を濁す。いくら鈍い男でも、さすがにここで不用意なことを口走ってはならぬという程度の現状認識能力はある。あるいは、自己保護本能に近いかもしれない。
「優しげで、もの柔らかで、いかにも女らしい」
「そう……かな。医者である故、大変な勉強家であることは間違いあるまいが」
「お前は、学問のできる女が好きなのか」
「好きとかそういうのでは――」
「では、嫌いか」
「いや、嫌いではない」
「嫌いでないなら、つまりは好きということだ」
「そう黒か白かみたいに訊かれても困る。志乃殿とは別にあやしい間柄ではない。おれの知りたいことを教えてくれる。その意味で、大事な人だ」
すっくと瑠璃が立ち上がった。
「ど、どうした? おれはまた変なことを言ってしまったのか」
瑠璃の全身から発せられる殺気に、将夜はわけのわからぬままうろたえる。
「その大事な人をいつまでも放っておくな。はやく戻ってやれ」
「お、お前は、どうするのだ? 夜道は――」
「わたしを襲うような物好きはおるまい。心配するな」
そのまま将夜の胸板を突き飛ばすようにして、立ち去ろうとする。
「待て。今日のお前は本当に変だぞ」
とっさに手首を掴むと、相手は脅えたように、びくっと震えた。
何かが月光を煌 めかせて、手の甲に零れ落ちた。
「離せ!」
言葉は乱暴だが、妙にか細く、潤みを帯びたような声だった。
身をよじって将夜の手を振りほどくと、まるで罠を逃れた野兎のような素早さで瑠璃の姿は闇の中に消えてゆく。
「……!」
将夜は、信じられぬものを見たように己の手を月の光に透かした。
冷たい水の滴がひとつ、仄白い光を吸って珠のように光っていた。
○
長屋に戻ると、部屋には誰もいなかった。
唐柿汁を入れた竹筒の脇に書置きがあり、
――唐柿汁はまだ数回分残っているので、一日三度、湯呑み一杯ずつ服用すること。身体の状態を診たいので近いうちにまた小石川養生所に来てほしい。
という意味のことが、たおやかな手跡 で記されていた。
志乃が己の帰りを待たずに辞去してしまったことに、将夜はほっとしたような、でも何処か肩透かしを喰らったような、複雑な気分を味わった。
胸の奥に、不穏な塊がある。
夜の身体の変化だけが原因ではないようだ。
ごろっと仰向けに畳の上に寝転ぶ。
畳の上には、二人の女の温もりが残り香の如く消 ずたゆたう気がする。
「妙な日だな」
思わず声に出して、呟いていた。
妙な日。
二人の娘が妙なのか、それとも己がおかしいのか。
「何がなんだが、さっぱりわからん!」
頭に激しい痒 みを覚えた。髻 の根に指を差し入れると、将夜は力任せにがりがりと掻き毟 った。
肩を叩かれて、瑠璃はびくっと震えた。
藍染川の
だから今は、将夜を見上げる形になる。
この辺りは町の灯も殆どなく、空に浮かぶ半分欠けた月が静かに水面を照らしているばかりだ。
仄かな水の照り返しを受けた顔が、雨に打たれた仔猫のようで、将夜はなぜかひどく狼狽する。
「こんな暗がりにいるやつがあるか。探すのに骨が折れたぞ」
瑠璃はぷいと水面の方に向き直る。
この姿勢では、瑠璃の表情はわからない。
「誰が探してくれと言った。大きなお世話だ」
「何故
「怒ってなど、おらぬ」
(あれで怒ってないと言うなら、一体どうやったら怒ったことになるのだ)
という言葉を、将夜は辛うじて喉の奥に呑み込む。
言葉の
「何を笑っておるのだ、神崎将夜」
「おれは笑ってなどいない」
「ふん、どうだか」
「疑うなら、おれの顔を見てみろ」
「きれいだな、志乃どのは」
不意に、そしてぽつりと、瑠璃が言った。
「そ、そうかな……」
将夜は曖昧に語尾を濁す。いくら鈍い男でも、さすがにここで不用意なことを口走ってはならぬという程度の現状認識能力はある。あるいは、自己保護本能に近いかもしれない。
「優しげで、もの柔らかで、いかにも女らしい」
「そう……かな。医者である故、大変な勉強家であることは間違いあるまいが」
「お前は、学問のできる女が好きなのか」
「好きとかそういうのでは――」
「では、嫌いか」
「いや、嫌いではない」
「嫌いでないなら、つまりは好きということだ」
「そう黒か白かみたいに訊かれても困る。志乃殿とは別にあやしい間柄ではない。おれの知りたいことを教えてくれる。その意味で、大事な人だ」
すっくと瑠璃が立ち上がった。
「ど、どうした? おれはまた変なことを言ってしまったのか」
瑠璃の全身から発せられる殺気に、将夜はわけのわからぬままうろたえる。
「その大事な人をいつまでも放っておくな。はやく戻ってやれ」
「お、お前は、どうするのだ? 夜道は――」
「わたしを襲うような物好きはおるまい。心配するな」
そのまま将夜の胸板を突き飛ばすようにして、立ち去ろうとする。
「待て。今日のお前は本当に変だぞ」
とっさに手首を掴むと、相手は脅えたように、びくっと震えた。
何かが月光を
「離せ!」
言葉は乱暴だが、妙にか細く、潤みを帯びたような声だった。
身をよじって将夜の手を振りほどくと、まるで罠を逃れた野兎のような素早さで瑠璃の姿は闇の中に消えてゆく。
「……!」
将夜は、信じられぬものを見たように己の手を月の光に透かした。
冷たい水の滴がひとつ、仄白い光を吸って珠のように光っていた。
○
長屋に戻ると、部屋には誰もいなかった。
唐柿汁を入れた竹筒の脇に書置きがあり、
――唐柿汁はまだ数回分残っているので、一日三度、湯呑み一杯ずつ服用すること。身体の状態を診たいので近いうちにまた小石川養生所に来てほしい。
という意味のことが、たおやかな
志乃が己の帰りを待たずに辞去してしまったことに、将夜はほっとしたような、でも何処か肩透かしを喰らったような、複雑な気分を味わった。
胸の奥に、不穏な塊がある。
夜の身体の変化だけが原因ではないようだ。
ごろっと仰向けに畳の上に寝転ぶ。
畳の上には、二人の女の温もりが残り香の如く
「妙な日だな」
思わず声に出して、呟いていた。
妙な日。
二人の娘が妙なのか、それとも己がおかしいのか。
「何がなんだが、さっぱりわからん!」
頭に激しい