第五十一話 満月の夜に何かが起こること
文字数 1,908文字
「これは……」
一目見て、すぐ将夜にも異変が感知された。
養生所の地下牢に囚われている男である。
一般の患者の診療が残っていることを理由に志乃を戻らせた後、斎木は将夜を伴って再び地下の室 に下りたのだ。
前回見た時、男は衰弱し切った様子であったが、今回は違う。
牢の真ん中に蹲り、しかも両手を床に着けている。四足獣を思わせる姿勢だ。
双眼は爛々と輝き、入ってきた将夜たちを睨み据えている。
「そうか、今宵は満月……」
「左様 。まだ月が昇る時刻には早いが、既に変化の兆しが現れているのがおわかりであろう。天窓一つない暗い穴蔵にいながら、奇態なことよの」
何を思ったか、檻 の外縁を廻るように、将夜が摺 り足で移動を始めた。
この牢は天然の洞窟を利用して作られたらしく、瓢箪 状のいびつな形をしている。
男が座っている位置と対角線上になったところまでくると、急に岩がくびれるのだ。岩に沿って進んだ場合、男との距離がぐっと縮まることになる。
「神崎殿、危ない! 離れなされ!」
斎木が鋭い声を上げた。
刹那。
男が将夜めがけて突っ込んできた。
まだ完全に獣人の姿に変じてはいないものの、その速さは明らかに人間のものではなかった。
とっさに横っ飛びに跳躍した将夜の影を、檻の隙間から突き出た腕が引き裂く。
「い、如何 なされた!」
周章 狼狽 して駆け寄る斎木に、将夜は落ち着いた声で答えた。
「大事ありません。間近でよく見ようと思っただけです」
そして、左の袖を壁の龕灯にかざした。
袖が二箇所、裂けていた。
「指の力だけでこれほどとは……。やはり、恐るべきものですな」
その時、檻がみしみしと軋んだ。男が格子を掴んで揺すぶっているのだ。見張り番が二人、刺股 状の棒を使って男を牢の中に押し込もうとするが、全く動かない。
斎木によると、この見張り番は御庭番が交代でつとめていると言う。御庭番が二人ががりでも動かせないとは、その力がいかに尋常でないか知れようというものだ。
斎木が将夜の腕を取って下がらせようとしたが、逆に将夜は一歩前に出た。
「神崎殿!」
制止を無視して、じっと檻の中の男を見つめる。
すると、男が格子に口を押しつけた。
「――――」
唸り声と糸を引く涎。その隙間から、奇妙な響きが洩れた。
○
「何故それがしにあの男を?」
地下への通路が隠されている小屋に、将夜と斎木は戻ってきていた。
「あれを見て、どうお感じになられたかな」
将夜は一瞬、答えを躊躇した。〈どう思うか〉でも、〈どう考えるか〉でもなく、〈どう感じたか〉と問う斎木の真意が掴めなかった故である。
手燭の灯が斎木の顔に、奇妙な隈取りを作っていた。
「あるいは、共鳴する処がおありではないかと思ったのじゃ」
「共鳴?」
「左様。あの狼憑きを調べているとな、恐れと同時に、どうしようもなく惹かれている己に気づかされる。私のような平凡な人間でさえ、そうだ。まして神崎殿、そなたの中に眠っているのはあの男と同じ、いや、それをも凌駕する力ではないか。ならば――」
「…………」
「ならば、そなたが持つ真実 の力を存分に解き放ってみたいとは思わぬかな」
「真実の、力?」
「吸血衝動の話は聞いておる。これは私の推測なのだが、神崎殿はまだ御自身の真の力を知らぬのではないか」
「…………」
「汚れなき乙女の血を吸った時、初めて〈だんぴいる〉としての完全体になるのだとしたら如何 なさる?」
「如何……とは?」
斎木の声が、熱に浮かされたように高くなる。「一体どこまで常人を超越した存在たり得るのか、確かめてみたいとは思われぬか? そのためとあらば私は喜んで志乃の身を、荒ぶる神への供物 として捧げようではないか!」
二人の間の空気が、一瞬で凍りついた。
将夜は射すくめるような眼光で斎木の顔を凝視する。
斎木の瞳孔は細かく震えて定まらない。
そこに狂気の光が宿っているのを、将夜は見た気がした。
どれほどの刻 が過ぎたか。
「斎木殿――」
将夜の唇が僅かに動いた。
灯が揺らいだのか、斎木の顔を隈取っている翳が生き物の如く蠢き、双の目がその異様な輝きを増す。
呼吸三つほどの沈黙の後、
「お戯 れが過ぎますぞ」
将夜の静かな声が、重く凝 った空気の中に響いた。
――と、引き攣ったような笑いが、断続的に斎木の口からあがった。
「戯言 、戯言じゃ!」
斎木は、聊か馴れ馴れしい動作で将夜の肩を叩く。
「…………」
「神崎殿、左様に怖い目で睨まないでくれ。そなたは、少々堅苦し過ぎる処がある」
斎木は手燭を吹き消すと、戯言戯言と独りごちながら、小屋の戸を開けて外へ出て行った。
鯉口を斬りかけていた指を、将夜はそっと鍔元から離した。
一目見て、すぐ将夜にも異変が感知された。
養生所の地下牢に囚われている男である。
一般の患者の診療が残っていることを理由に志乃を戻らせた後、斎木は将夜を伴って再び地下の
前回見た時、男は衰弱し切った様子であったが、今回は違う。
牢の真ん中に蹲り、しかも両手を床に着けている。四足獣を思わせる姿勢だ。
双眼は爛々と輝き、入ってきた将夜たちを睨み据えている。
「そうか、今宵は満月……」
「
何を思ったか、
この牢は天然の洞窟を利用して作られたらしく、
男が座っている位置と対角線上になったところまでくると、急に岩がくびれるのだ。岩に沿って進んだ場合、男との距離がぐっと縮まることになる。
「神崎殿、危ない! 離れなされ!」
斎木が鋭い声を上げた。
刹那。
男が将夜めがけて突っ込んできた。
まだ完全に獣人の姿に変じてはいないものの、その速さは明らかに人間のものではなかった。
とっさに横っ飛びに跳躍した将夜の影を、檻の隙間から突き出た腕が引き裂く。
「い、
「大事ありません。間近でよく見ようと思っただけです」
そして、左の袖を壁の龕灯にかざした。
袖が二箇所、裂けていた。
「指の力だけでこれほどとは……。やはり、恐るべきものですな」
その時、檻がみしみしと軋んだ。男が格子を掴んで揺すぶっているのだ。見張り番が二人、
斎木によると、この見張り番は御庭番が交代でつとめていると言う。御庭番が二人ががりでも動かせないとは、その力がいかに尋常でないか知れようというものだ。
斎木が将夜の腕を取って下がらせようとしたが、逆に将夜は一歩前に出た。
「神崎殿!」
制止を無視して、じっと檻の中の男を見つめる。
すると、男が格子に口を押しつけた。
「――――」
唸り声と糸を引く涎。その隙間から、奇妙な響きが洩れた。
○
「何故それがしにあの男を?」
地下への通路が隠されている小屋に、将夜と斎木は戻ってきていた。
「あれを見て、どうお感じになられたかな」
将夜は一瞬、答えを躊躇した。〈どう思うか〉でも、〈どう考えるか〉でもなく、〈どう感じたか〉と問う斎木の真意が掴めなかった故である。
手燭の灯が斎木の顔に、奇妙な隈取りを作っていた。
「あるいは、共鳴する処がおありではないかと思ったのじゃ」
「共鳴?」
「左様。あの狼憑きを調べているとな、恐れと同時に、どうしようもなく惹かれている己に気づかされる。私のような平凡な人間でさえ、そうだ。まして神崎殿、そなたの中に眠っているのはあの男と同じ、いや、それをも凌駕する力ではないか。ならば――」
「…………」
「ならば、そなたが持つ
「真実の、力?」
「吸血衝動の話は聞いておる。これは私の推測なのだが、神崎殿はまだ御自身の真の力を知らぬのではないか」
「…………」
「汚れなき乙女の血を吸った時、初めて〈だんぴいる〉としての完全体になるのだとしたら
「如何……とは?」
斎木の声が、熱に浮かされたように高くなる。「一体どこまで常人を超越した存在たり得るのか、確かめてみたいとは思われぬか? そのためとあらば私は喜んで志乃の身を、荒ぶる神への
二人の間の空気が、一瞬で凍りついた。
将夜は射すくめるような眼光で斎木の顔を凝視する。
斎木の瞳孔は細かく震えて定まらない。
そこに狂気の光が宿っているのを、将夜は見た気がした。
どれほどの
「斎木殿――」
将夜の唇が僅かに動いた。
灯が揺らいだのか、斎木の顔を隈取っている翳が生き物の如く蠢き、双の目がその異様な輝きを増す。
呼吸三つほどの沈黙の後、
「お
将夜の静かな声が、重く
――と、引き攣ったような笑いが、断続的に斎木の口からあがった。
「
斎木は、聊か馴れ馴れしい動作で将夜の肩を叩く。
「…………」
「神崎殿、左様に怖い目で睨まないでくれ。そなたは、少々堅苦し過ぎる処がある」
斎木は手燭を吹き消すと、戯言戯言と独りごちながら、小屋の戸を開けて外へ出て行った。
鯉口を斬りかけていた指を、将夜はそっと鍔元から離した。