第三十話 記憶の神は細部に宿ること
文字数 2,057文字
「これは異国の香水というものです。なんとも言えぬ佳 い香りでしょう?」
手首の裏側に一、二滴こぼし、その透き通るような白い手を将夜の方へ差し伸ばす。薄暗い室の内で、その香水とやらが塗られた箇所に、極めて微細な光が点々と散っている。
「特殊な粉末が配合してあって、日の光や灯りの下では見えないのですが、暗がりの中では仄かに発光します。故にこの香水を〈夜光虫 〉と呼ぶのです。――あ、だめ、そんなに顔を近寄せては」
鼻の先が手首に触れるほど顔を近づけてしまった将夜は、思わず大きなくしゃみをする。
「ほら、言わぬことではない」
鈴を振るような笑いが響く。
将夜も、照れたように笑う。
甘やかだがしつこくなく、清々 しさのある芳香が漂う。
母の手にある、ギヤマンの壺。
掌に収まるほど小さいが、いかにも精緻な作りの壺で、それが僅かな光の中でもきらきらと輝く様は、見ているだけで陶然としてしまう。
「母は一年だけ、長崎にいました。そこである方からいただいたものです」
「長崎は江戸から遠いのですか」
「遠いです。海を越えていかねばなりません」
「それでは、長崎は異国なのですか」
「いいえ。異国ではありません。でも、この国の中で一番異国に近い処 です」
――この短い対話は、今の将夜が開けることのできる数少ない記憶の函 の底に、大切にしまい込まれてある。そして、袱紗に残った〈夜光虫〉の香をかぐことが、その函の蓋を開くことになるのだ。
母の俤 は既に朧 に霞んでいるにも拘らず、差し伸べられた手の白さや、〈夜光虫〉の壺の星屑を集めた如き輝き――そういった細部は、逆にありありと眼前に彷彿とするから不思議だった。
○
「長崎……」
将夜は呟く。
獣人が異国の言葉らしきものを発した時、将夜がとっさに長崎のことを思い浮かべたのは、ある意味当然であった。異国へ開かれた港と言えば、当時長崎の出島以外にない。
しかも――
それは母・弥生が、かつて暮らしていた土地でもあった。
母方の家は、長崎奉行坪内定央の下で、与力の役目に就いていた。
長崎奉行は二人制で、一年毎に交代で長崎に赴任する。通常、与力の身分では家族を伴うことなど許されないのだが、弥生はある年、特別に同道を許された。
この特別措置は、弥生に類い稀な学問の才があったためである。
どんな書物も、一度目を通せば悉 く諳 んじ、一字一句忘れることはない。また異国の言葉の習得に非常な興味を示し、是非長崎で蘭語を学びたいと自ら同道を願い出たのである。
妻を早くに亡くしており、身の回りの世話を娘に頼り切りだったこともあり、弥生の父は親馬鹿の謗 りを承知で、おそるおそる坪内に伺いを立ててみた。案に相違して坪内は弥生に興味を引かれた。すぐに命じて弥生を連れてこさせ、直々に試問した。
すると、女の身ながら四書 五経 など難解な漢籍 も掌 を指すが如く諳んじてみせたので大いに驚き、その場で同道を許可したのである。
実際、弥生は長崎で阿蘭陀 通詞 と清国 通詞について学び、忽 ちのうちに蘭語や唐語に精通しただけでなく、阿蘭陀商人の中に英吉利 人も混じっているのを知るや、その元へ通い詰め、英吉利語まで覚えてしまった。その英吉利人は弥生の聡明さに舌を巻き、「You are a genius girl!(あなたは天才少女です)」と賛嘆を惜しまなかったと言う。
――長崎。母。座敷牢。己の体質の変化。典型的な文官であった父がわざわざ紹介した士道館。
師重蔵が、自分のみに伝えた秘剣胡蝶斬り。そして、獣人の出現。
秘剣胡蝶斬りがなければ、獣人を斃 すことはできなかった。しかし、逆に見れば、重蔵は獣人の出現を予見していたかのようである。
そんなふうに物事を繋ぎ合わせてゆくと、獣人事件と己の間に因縁の糸とも言うべきものが白々と浮かんでくる気がする。
その糸をたぐり寄せたいという思いが、夜な夜なの彷徨 に将夜を駆り立てるのだ。
世のため人のためと、正義漢面 であやかし退治を気取っているわけでもなく、ましてや売名行為などではさらさらない。
母に繋がる手掛かりがほしい。そして――
己が何者なのかを知りたい。
ただ、それだけなのである。
しかし、あの晩以来、獣人はさっぱり鳴りを潜めてしまっていた。
(頭目がいるという読みは外れたか……。獣人はあやつだけだったのやもしれぬ)
そう考えることは恐ろしかった。もし事実なら、将夜は母に繋がる唯一の手掛かりを自らの手で斬り捨ててしまったことになる。
(む……?)
無意識に袱紗の縁を弄んでいた将夜は、妙な手触りに気づいた。
生地と全く同じ色の糸なので今まで気づかなかったのだが、何か縫いこんであるらしい。
「あっ」
思わず声を上げていた。
慎重に糸を解くと、なんとそこから、小さく折り畳まれた紙が出てきたのである。
破らぬよう細心の注意で広げてみる。そこには米粒の上に書いた如き微細な文字が記されているではないか。
「小石、川……養……ど、どういうことだ、これは……?!」
茫然と、将夜は目を瞠った。
手首の裏側に一、二滴こぼし、その透き通るような白い手を将夜の方へ差し伸ばす。薄暗い室の内で、その香水とやらが塗られた箇所に、極めて微細な光が点々と散っている。
「特殊な粉末が配合してあって、日の光や灯りの下では見えないのですが、暗がりの中では仄かに発光します。故にこの香水を〈
鼻の先が手首に触れるほど顔を近づけてしまった将夜は、思わず大きなくしゃみをする。
「ほら、言わぬことではない」
鈴を振るような笑いが響く。
将夜も、照れたように笑う。
甘やかだがしつこくなく、
母の手にある、ギヤマンの壺。
掌に収まるほど小さいが、いかにも精緻な作りの壺で、それが僅かな光の中でもきらきらと輝く様は、見ているだけで陶然としてしまう。
「母は一年だけ、長崎にいました。そこである方からいただいたものです」
「長崎は江戸から遠いのですか」
「遠いです。海を越えていかねばなりません」
「それでは、長崎は異国なのですか」
「いいえ。異国ではありません。でも、この国の中で一番異国に近い
――この短い対話は、今の将夜が開けることのできる数少ない記憶の
母の
○
「長崎……」
将夜は呟く。
獣人が異国の言葉らしきものを発した時、将夜がとっさに長崎のことを思い浮かべたのは、ある意味当然であった。異国へ開かれた港と言えば、当時長崎の出島以外にない。
しかも――
それは母・弥生が、かつて暮らしていた土地でもあった。
母方の家は、長崎奉行坪内定央の下で、与力の役目に就いていた。
長崎奉行は二人制で、一年毎に交代で長崎に赴任する。通常、与力の身分では家族を伴うことなど許されないのだが、弥生はある年、特別に同道を許された。
この特別措置は、弥生に類い稀な学問の才があったためである。
どんな書物も、一度目を通せば
妻を早くに亡くしており、身の回りの世話を娘に頼り切りだったこともあり、弥生の父は親馬鹿の
すると、女の身ながら
実際、弥生は長崎で
――長崎。母。座敷牢。己の体質の変化。典型的な文官であった父がわざわざ紹介した士道館。
師重蔵が、自分のみに伝えた秘剣胡蝶斬り。そして、獣人の出現。
秘剣胡蝶斬りがなければ、獣人を
そんなふうに物事を繋ぎ合わせてゆくと、獣人事件と己の間に因縁の糸とも言うべきものが白々と浮かんでくる気がする。
その糸をたぐり寄せたいという思いが、夜な夜なの
世のため人のためと、正義漢
母に繋がる手掛かりがほしい。そして――
己が何者なのかを知りたい。
ただ、それだけなのである。
しかし、あの晩以来、獣人はさっぱり鳴りを潜めてしまっていた。
(頭目がいるという読みは外れたか……。獣人はあやつだけだったのやもしれぬ)
そう考えることは恐ろしかった。もし事実なら、将夜は母に繋がる唯一の手掛かりを自らの手で斬り捨ててしまったことになる。
(む……?)
無意識に袱紗の縁を弄んでいた将夜は、妙な手触りに気づいた。
生地と全く同じ色の糸なので今まで気づかなかったのだが、何か縫いこんであるらしい。
「あっ」
思わず声を上げていた。
慎重に糸を解くと、なんとそこから、小さく折り畳まれた紙が出てきたのである。
破らぬよう細心の注意で広げてみる。そこには米粒の上に書いた如き微細な文字が記されているではないか。
「小石、川……養……ど、どういうことだ、これは……?!」
茫然と、将夜は目を瞠った。