第九話 〈衝動〉を抑えるのは至難の業のこと
文字数 1,284文字
(ま、またか……)
芳香が、将夜を包んでいる。
先程おみよに感じたのと同じ匂いが、激烈な混乱を身内に呼び起こす。
たった今、獣人を斬った将夜は漸く匂いの正体に思い至った。
匂いの正体とは――
血である。
と言っても、将夜に斬られた獣人が今も垂れ流しているようなどす黒く、生臭い血ではない。
乙女だけが持つ、清浄無垢な鮮血の香。
月光を浴びて仄白 く浮かび上がる、ほっそりした襟足。そのいかにも儚 げな外見とは裏腹に、その肌の下を流れる熱い血潮は荒々しいほどの生命力に満ちている。その脈動が、得 も言われぬ芳香となって立ち昇り、激しく鼻孔を撲 つのだ。
ごくり、と将夜の喉が鳴る。
まだ震えの完全には収まらぬ白い襟足が、次第にこちらへ近づいてくる。
いや、自分が――正確には自分の口が女の項に吸い寄せられているのだ。
己を律する鎖が音を立てて軋み、今にも木っ端微塵に飛び散るかと思われた。
――と、その時。
通りの先に提灯らしい明かりが浮かび、誰かこちらに走ってくる足音がした。
はっと我に返った将夜は、女の身体から左手を放し、刀の鍔元を強く握り締めた。刀身から発せられる冷気が掌 を通して伝わり、暴走寸前であった衝動が次第に鎮 まってゆく。
「あ、あれは――」
女が不安げな声で囁く。
「定町 廻 りだ」
将夜は、ふうっと息を吐いた。冷静さを取り戻している。
「ちょうどよい。後は八丁堀 に引き取ってもらおう。――そなたが乱心の男に襲われかけた処 に、偶々 おれが通りかかった。それでよいな?」
将夜はそっと、女の身体を支えていた右手を放す。女も、もう自分の力で立っていられるほどには恢復 している。
「御言葉ではございますが、乱心などでは……」
女の囁くような声に、訝しげな色が滲んだのも無理はない。
獣と人との背徳の交わりの果てに、この世の呪いと悪意を一身に集めて生み落とされた如き化け物ではないか。
「しかし、あの屍体を見て、果たして役人が信じてくれようか」
男が顎をしゃくる方を見て、女はあっと小さく叫んだ。
月明かりを浴びて地に横たわっているのは、ふんどしも付けぬ素裸である点を除けば、尋常な一人の男にすぎなかった。びっしり身体を覆っていた黒い体毛も、全て抜け落ちたように消えている。
「そんな……先程までは確かに、あのように恐ろしげな……」
「どうやら、死ぬと元の姿に戻るようだな。寸まで縮んでいる」
それでは、六尺あまりの巨体かと見えたのも幻術の如きものだったのか。それにしては、はち切れんばかりだった筋肉も、牙を剥きだした唸り声も、あまりに記憶に生々しい。
気丈にも屍体から目を逸らさず、月明かりに透かすように凝然 と見つめていた女が、呟くように言った。
「や、やはり……わたくしの見間違いではなかったのかもしれませぬ」
「やはり? それはどういう意味だ」
将夜が聞き咎めると、女は何故か僅かに動揺した。
「いえ……ただの独り言にございますれば、お聞き流し下さいますよう」
女が言い終わるのと、市中見回りの同心 が駆けつけたのは、ほぼ同時であった。
芳香が、将夜を包んでいる。
先程おみよに感じたのと同じ匂いが、激烈な混乱を身内に呼び起こす。
たった今、獣人を斬った将夜は漸く匂いの正体に思い至った。
匂いの正体とは――
血である。
と言っても、将夜に斬られた獣人が今も垂れ流しているようなどす黒く、生臭い血ではない。
乙女だけが持つ、清浄無垢な鮮血の香。
月光を浴びて
ごくり、と将夜の喉が鳴る。
まだ震えの完全には収まらぬ白い襟足が、次第にこちらへ近づいてくる。
いや、自分が――正確には自分の口が女の項に吸い寄せられているのだ。
己を律する鎖が音を立てて軋み、今にも木っ端微塵に飛び散るかと思われた。
――と、その時。
通りの先に提灯らしい明かりが浮かび、誰かこちらに走ってくる足音がした。
はっと我に返った将夜は、女の身体から左手を放し、刀の鍔元を強く握り締めた。刀身から発せられる冷気が
「あ、あれは――」
女が不安げな声で囁く。
「
将夜は、ふうっと息を吐いた。冷静さを取り戻している。
「ちょうどよい。後は
将夜はそっと、女の身体を支えていた右手を放す。女も、もう自分の力で立っていられるほどには
「御言葉ではございますが、乱心などでは……」
女の囁くような声に、訝しげな色が滲んだのも無理はない。
あれ
が、そんな生易しいものであった筈はないのだ。獣と人との背徳の交わりの果てに、この世の呪いと悪意を一身に集めて生み落とされた如き化け物ではないか。
「しかし、あの屍体を見て、果たして役人が信じてくれようか」
男が顎をしゃくる方を見て、女はあっと小さく叫んだ。
月明かりを浴びて地に横たわっているのは、ふんどしも付けぬ素裸である点を除けば、尋常な一人の男にすぎなかった。びっしり身体を覆っていた黒い体毛も、全て抜け落ちたように消えている。
「そんな……先程までは確かに、あのように恐ろしげな……」
「どうやら、死ぬと元の姿に戻るようだな。寸まで縮んでいる」
それでは、六尺あまりの巨体かと見えたのも幻術の如きものだったのか。それにしては、はち切れんばかりだった筋肉も、牙を剥きだした唸り声も、あまりに記憶に生々しい。
気丈にも屍体から目を逸らさず、月明かりに透かすように
「や、やはり……わたくしの見間違いではなかったのかもしれませぬ」
「やはり? それはどういう意味だ」
将夜が聞き咎めると、女は何故か僅かに動揺した。
「いえ……ただの独り言にございますれば、お聞き流し下さいますよう」
女が言い終わるのと、市中見回りの