第三十三話 歴史上の大物の名が出て作者もびっくりのこと
文字数 1,656文字
薬園の中の小道を奥へ進むと、倉庫のような小屋があった。
入り口には頑丈そうな錠が差してある。
錠を開けて中に入ると、すぐまた戸を閉めた。
明かり取りの窓もなく、中には黴の匂いのする闇がよどんでいる。
女が手燭に火をつける。
部屋の隅に、薬草でも置くのか、据え置きらしい重そうな台が見えたが、斎木が手を掛けると、意外に軽やかな音を立てて、横にずれた。
斎木は更に床の羽目板を取り外す。
周囲より一層濃い闇が、口を開けた。
「ほう」
将夜が斎木を見る。
「ここに入っていただきたい」
「身寄りのない貧民たちを救う小石川養生所に、このような秘密めかした仕掛けがあるとは、聊か意外ですな……」
「薬膳所をご覧になっておわかりと思うが、貧民救済は嘘ではない。しかし、財政難の幕府がただそれだけの理由でこのような施設を作ると、神崎殿は本気でお考えになるか」
「では新薬の実験という噂は、真 ……?」
「いや、そのようなことはしておらぬ。当養生所では常時数十人もの貧民を薬代を取らずに診ておる。ただ、それはあくまで表の顔。私がここにいるのは、裏の目的のため」
「裏の、目的とは――」
「百聞は一見に如かず。神崎殿、御自分の目で確かめてほしい」
言うやいなや、斎木が先に立って降りてゆく。斎木が先なのは、将夜に疑念を起こさせないための用心なのだろうが、見方によっては余計な質問を拒否している姿勢とも取れる。
(自ら進んでやってきたのだ。今更躊躇しても仕方あるまい)
苦笑を洩らしつつ、後へ続こうとした時だ。
「嘘ではありません」
耳元で、囁く声がした。
将夜が、はっと振り返る。息が触れる程の距離に女の顔があった。
「わたくしの名は、志乃と申します。あの時は危ない処をお助けいただきまして――」
手燭の灯を映した眸が、潤んだように輝いている。
微笑 みかけた将夜の顔が、強張る。
強烈な芳香。
通気の悪い小屋の中のせいか、噎 せるほどの濃厚さで迫ってくる。
(まずい……)
将夜はぎこちなく目を逸らすと、差し料を抜いて右手に強く握り締め、逃れるように地下へ下りていった。
これもまた将夜を地下室へ誘い込むための罠だとしたら、もはや観念するしかあるまい。
通路は狭かったが、段を降りきった処はかなりの広さがあった。
灯りも、ある。
おそらく染み出る地下水によって火を消されぬ用心だろう。龕灯 のような作りになっている。
――と、
音もなく闇から滲み出た影が、行く手を遮るように斎木の前に立ちはだかった。
「心配要らぬ。何かあれば私が責めを負う」
斎木の言葉に、影は一礼して脇に退いた。
しかし、距離はおいたものの、油断なく将夜を窺っている気配が感じられる。
(忍びだな……)
おそらく、御庭番の一人であろう。
「こちらを、御覧いただきたい」
斎木が指差しつつ、将夜を振り返る。
それは岩をくりぬいて作った牢だった。
太く頑丈な格子の入った檻 は、まるで恐ろしい猛獣を閉じ込めておくために作られたもののようだ。
将夜はゆっくりと檻に近づいた。
意外なことに、中にいるのは一人の痩せこけた男だった。
衣服は身につけていず、腹には肋骨が透けている。
後ろの壁に、ぐったりと背をあずけている姿は憔悴しきって見える。目も単なる二つの穴の如く虚 ろで、将夜の姿も、果たして見えているかどうか疑わしい。
「これは……。何の罪かは存じませんが、これほど厳重な牢が必要なのですか」
「一見弱りきって見えようが、満月の夜には文字通り人が変わり、手の付けられぬほど凶暴化する。御庭番を見張りに置いているのはそのためだ」
「満月の夜? まさか――」
「そのまさかだ。狼と人の合いの子の如き姿となる」
将夜は目を瞠った。
「私はお上の命を受けて、なぜこのような現象が発生するのか調べている。このような者を放置しておけば危険極まりないのみでなく、異国との交易に反対するものが勢いづく故、御老中も頭を悩ませておられるのだ」
「御老中――ということは、田沼様?」
老中田沼 意次 ――今を時めく幕閣最高実力者である。
入り口には頑丈そうな錠が差してある。
錠を開けて中に入ると、すぐまた戸を閉めた。
明かり取りの窓もなく、中には黴の匂いのする闇がよどんでいる。
女が手燭に火をつける。
部屋の隅に、薬草でも置くのか、据え置きらしい重そうな台が見えたが、斎木が手を掛けると、意外に軽やかな音を立てて、横にずれた。
斎木は更に床の羽目板を取り外す。
周囲より一層濃い闇が、口を開けた。
「ほう」
将夜が斎木を見る。
「ここに入っていただきたい」
「身寄りのない貧民たちを救う小石川養生所に、このような秘密めかした仕掛けがあるとは、聊か意外ですな……」
「薬膳所をご覧になっておわかりと思うが、貧民救済は嘘ではない。しかし、財政難の幕府がただそれだけの理由でこのような施設を作ると、神崎殿は本気でお考えになるか」
「では新薬の実験という噂は、
「いや、そのようなことはしておらぬ。当養生所では常時数十人もの貧民を薬代を取らずに診ておる。ただ、それはあくまで表の顔。私がここにいるのは、裏の目的のため」
「裏の、目的とは――」
「百聞は一見に如かず。神崎殿、御自分の目で確かめてほしい」
言うやいなや、斎木が先に立って降りてゆく。斎木が先なのは、将夜に疑念を起こさせないための用心なのだろうが、見方によっては余計な質問を拒否している姿勢とも取れる。
(自ら進んでやってきたのだ。今更躊躇しても仕方あるまい)
苦笑を洩らしつつ、後へ続こうとした時だ。
「嘘ではありません」
耳元で、囁く声がした。
将夜が、はっと振り返る。息が触れる程の距離に女の顔があった。
「わたくしの名は、志乃と申します。あの時は危ない処をお助けいただきまして――」
手燭の灯を映した眸が、潤んだように輝いている。
強烈な芳香。
通気の悪い小屋の中のせいか、
(まずい……)
将夜はぎこちなく目を逸らすと、差し料を抜いて右手に強く握り締め、逃れるように地下へ下りていった。
これもまた将夜を地下室へ誘い込むための罠だとしたら、もはや観念するしかあるまい。
通路は狭かったが、段を降りきった処はかなりの広さがあった。
灯りも、ある。
おそらく染み出る地下水によって火を消されぬ用心だろう。
――と、
音もなく闇から滲み出た影が、行く手を遮るように斎木の前に立ちはだかった。
「心配要らぬ。何かあれば私が責めを負う」
斎木の言葉に、影は一礼して脇に退いた。
しかし、距離はおいたものの、油断なく将夜を窺っている気配が感じられる。
(忍びだな……)
おそらく、御庭番の一人であろう。
「こちらを、御覧いただきたい」
斎木が指差しつつ、将夜を振り返る。
それは岩をくりぬいて作った牢だった。
太く頑丈な格子の入った
将夜はゆっくりと檻に近づいた。
意外なことに、中にいるのは一人の痩せこけた男だった。
衣服は身につけていず、腹には肋骨が透けている。
後ろの壁に、ぐったりと背をあずけている姿は憔悴しきって見える。目も単なる二つの穴の如く
「これは……。何の罪かは存じませんが、これほど厳重な牢が必要なのですか」
「一見弱りきって見えようが、満月の夜には文字通り人が変わり、手の付けられぬほど凶暴化する。御庭番を見張りに置いているのはそのためだ」
「満月の夜? まさか――」
「そのまさかだ。狼と人の合いの子の如き姿となる」
将夜は目を瞠った。
「私はお上の命を受けて、なぜこのような現象が発生するのか調べている。このような者を放置しておけば危険極まりないのみでなく、異国との交易に反対するものが勢いづく故、御老中も頭を悩ませておられるのだ」
「御老中――ということは、田沼様?」
老中