第二十四話 娘は嘘をつき、同心は将夜の跡をつけること
文字数 1,404文字
話は昨夜 に遡 る――。
人気のない道で、ひたと侍が足を止めた。
「確か、笹尾殿と申されたな」
「随分と夜目がお利きなさいますことで。それと、私のような者の名を覚えておられたとはありがたいことで……」
闇から滲み出すように、小柄な男が現れた。
しかし、将夜とはかなりの距離を置いて立ち止まる。
四囲 は闇に閉ざされ、通りに面した店は、いずれも大戸 を下ろしている。人影はない。
掘割の水が、囁くような音を立てているばかりだ。
「あの後、いろいろ妙なことになりましてね。もう一度お話を伺いたいと思っていたのですが、お旗本では何かと手続きがややこしい。困っていたところに――」
「ちょうどいい具合に家を追い出されてくれたってわけかね」
「それでも新しいお住 いを探し当てるには多少骨が折れましたよ。その手間に免じて、こうして跡をつけたりした御無礼は、平にご容赦願いたい」
「おれから、何を訊きたいのだ」
「あの志乃と申す娘、嘘を吐 いておりましたよ」
「ほう?」
武家が事件を起こした場合、通常は目付 の預かりとなる。町方には、尋問したり拘束したりする権限はない。
あの晩は事件の現場に居合わせたことに加え、斬られたのが――少なくとも屍体 が――町人であったため、自身番まで笹尾と娘に同行し、己 が姓名と居所 は告げておいた。だが、町同心が詳しく事情を訊く相手は、襲われた娘の方である筈である。
「町医 ・生方 木斎 の娘だと申しておりましたが、住いなどまったくの出鱈目 でしたよ。念のため近所を改めましたが、そんな名の町医はおりません。恐ろしさに蒼ざめていると見えた娘が、まさかしゃあしゃあと嘘偽 りを並べ立てていたとはね。あれじゃあ、志乃という名も本当かどうかわかりゃしません」
「八丁堀 の旦那が、まんまと一杯喰わされたってわけだ」
自身番で娘が語った内容は、以下の通りである。
父が往診中のところへ、急を要する患者が入ったので、慌てて父に知らせに走った。父はそのまま患者の処へ回ったので、自分だけ家に戻った。その途中で見知らぬ男に襲われた――。
気丈なだけでなく、眸にいかにも知的な光があり、ただの町娘ではあるまいと将夜も見ていたので、医者の娘と聞いてなるほどと思った。急ぎの患者云々の話にも、特に不自然な点は感じられなかった。それが全て偽りであったとは、将夜にとっても聊 か意外ではあった。
「まったく、面目 ない話です」
笹尾は十手で首筋をぴしゃりと叩いた。皮肉めいた将夜の言葉にも別に腹を立てた様子はないが、闇の中でも鈍く光る十手が、さりげなく威圧感を漂わせる。
「そこで是非、お力添えを賜りたいと思いまして。あの晩――」
「おれが知ってることは、残らず話した。女が男に襲われている処へ偶々 行き合わせた。襲っている男はあきらかに乱心しており、口で説得できる状況ではなかった。そこで、やむなく斬った」
「女に襲いかかっている時、奴は本当に
「…………」
将夜は一瞬、虚を衝かれた。
笹尾の顔は笑っているが、目は笑っていない。
「屍体は一緒に確かめた筈だが」
「確かに。紛れもなく人の男でしたよ、屍体はね」
「身元は?」
「わかりませんでした。人別帳 に記載がありません。無宿者 です」
「そうか……」
不意に、将夜の手が翻った。
大店 の庭から往来の上にせりだしていた松の枝に、小柄 がかっと突き立つ。
枝が僅かに揺れ、密生した針の如き葉が闇を掻いた。
人気のない道で、ひたと侍が足を止めた。
「確か、笹尾殿と申されたな」
「随分と夜目がお利きなさいますことで。それと、私のような者の名を覚えておられたとはありがたいことで……」
闇から滲み出すように、小柄な男が現れた。
しかし、将夜とはかなりの距離を置いて立ち止まる。
掘割の水が、囁くような音を立てているばかりだ。
「あの後、いろいろ妙なことになりましてね。もう一度お話を伺いたいと思っていたのですが、お旗本では何かと手続きがややこしい。困っていたところに――」
「ちょうどいい具合に家を追い出されてくれたってわけかね」
「それでも新しいお
「おれから、何を訊きたいのだ」
「あの志乃と申す娘、嘘を
「ほう?」
武家が事件を起こした場合、通常は
あの晩は事件の現場に居合わせたことに加え、斬られたのが――少なくとも
「
「
自身番で娘が語った内容は、以下の通りである。
父が往診中のところへ、急を要する患者が入ったので、慌てて父に知らせに走った。父はそのまま患者の処へ回ったので、自分だけ家に戻った。その途中で見知らぬ男に襲われた――。
気丈なだけでなく、眸にいかにも知的な光があり、ただの町娘ではあるまいと将夜も見ていたので、医者の娘と聞いてなるほどと思った。急ぎの患者云々の話にも、特に不自然な点は感じられなかった。それが全て偽りであったとは、将夜にとっても
「まったく、
笹尾は十手で首筋をぴしゃりと叩いた。皮肉めいた将夜の言葉にも別に腹を立てた様子はないが、闇の中でも鈍く光る十手が、さりげなく威圧感を漂わせる。
「そこで是非、お力添えを賜りたいと思いまして。あの晩――」
「おれが知ってることは、残らず話した。女が男に襲われている処へ
「女に襲いかかっている時、奴は本当に
人の形
をしていたのですかな?」「…………」
将夜は一瞬、虚を衝かれた。
笹尾の顔は笑っているが、目は笑っていない。
「屍体は一緒に確かめた筈だが」
「確かに。紛れもなく人の男でしたよ、屍体はね」
「身元は?」
「わかりませんでした。
「そうか……」
不意に、将夜の手が翻った。
枝が僅かに揺れ、密生した針の如き葉が闇を掻いた。