第七十二話 氷のくノ一は将夜の覚醒を知ること
文字数 2,219文字
異変が、起こっていた。
血の海の中で痙攣していた筈の菊也が、緩慢な動作ながら起き上がろうとしているのである。
とっさに飛びすさった桔梗の目に、初めて焦りの色が動いた。
獣化したとは言っても元は人の姿であり、腕や足が増えたわけではない。基本的に人体と構造が同じであるなら、人において急所とされる処を過 たず攻撃できれば、魔族と雖も必ず斃せると信じていた。
それなのに……。
傷は確かに負っている。血も多量に流れている。断つべき処も断った。ところが、構造的にもはや動かせる筈のない部位が、まだ動き続けているのである。
(これが、魔力……?)
俄かには信じられないが、現に目の前で起こっていることは否定しようがない。
菊也の目が真っ赤に染まり、今にも炎となって燃え上がるかと見えた。
擦 れ合う牙の隙間から洩れるのは、地獄の陰風 の如き唸り声。
猟師が最も恐れるのは、手負いの獣だと言う。
ましてやそれが、魔族だとしたら……。
「王妃の舞いを途中で遮るとは、無粋な客人よな」
桔梗が梟を撃った時、源内の顔に一瞬動揺が走ったようであったが、それもこちらを油断させるための芝居だったのだろうか。源内は今、さもおかしそうに笑っていた。
そして、菊也に合図する如く、ゆらりと片腕を上げる。
(こ、ここまでか……)
桔梗も、この時ばかりは死を覚悟した。
源内の手が翻った。〈殺 れ〉という合図。
轟音が、響いた。
さすがの桔梗も、一瞬何が起こったのかわからなかった。
飛びかかる寸前だった菊也と、決死の覚悟でそれを迎え撃とうとする御庭番たちのちょうど真ん中に、何かが落下したのである。
まるで夜空の果てから、一個の隕石が月影を掠め、この屋敷の上に落ちてきたかのように。
落下点を中心に強い風が発生し、四囲を圧した。
御庭番の中には吹き飛ばされて、壁に激突した者もいる。
桔梗は風に逆らわず、飛ばされながら後ろ向きに宙返りをし、圧力を緩和させつつ軽やかに着地した。
「これ以上の狼藉は、このおれが許さぬ」
隕石ではなかった。
その者は、ゆっくりと立ち上がった。
白皙の面が、月の光に濡れている。
「か、神崎……様……」
茫然と桔梗は呟いた。
将夜が桔梗をちらっと見遣って、軽く笑った。その口元から覗く歯が長く伸び、先が尖っているのに桔梗は気づいた。
唸り声を上げつつ、菊也が猛然と飛びかかったのは、その時であった。
「危ないッ」
思わず桔梗は叫んでいた。
将夜の身体がすっと沈んだ。菊也はその頭の上を躍り越える。
御庭番たちが、ざっと左右に展開する。
波のように分かれた御庭番の間に、菊也は四足で着地した。動きが完全に、獣のそれだった。
御庭番の刀が、獣を囲う檻のように並び立つ。
ぱちん、
将夜の刀の鍔が鳴った。
菊也は振り返った。まるで不思議なものでも眺めるように、じっと将夜を凝視する。
と、ふらふらと立ち上がった。
赤く輝いていた双眼が、急に光を失い、白濁していく。
「りゅか……おおん」
掠れた声の合間に、ごぼごぼと血の溢れる音がする。歩こうとして足が縺れ、がっくりと膝を突く。両手を高く挙げた。
「ぐろーりー ・びぃ ・とぅー ・きんぐ ・りゅかおおん !」
叩頭する姿勢で、菊也は崩れ落ちた。みるみる厚い血の海が広がってゆく。
しかし、将夜はもうそれを視野に留めてはいない。
「今度はお前の番だな」
涼やかに源内の方へ向き直った。すっと桔梗が将夜の脇に並び立ち、忍び刀を構える。
「ぐわッ、ぐわッ、ぐわッははははは!」
哄笑が、上がった。
「余を……余を斃そうと言うか。だんぴいる風情が、身の程も弁えず……」
柱や梁が鳴動する如き大音声であった。更にそれは、途中で咆哮に変わる。
長く長く尾を引く、もの凄まじき吼え声。
荒野でたった一人長嘯する、孤独で傲慢な王の姿を彷彿とさせた。
「来るなら、来てみよ」
奇妙なことに、その姿が一瞬で掻き消えていた。
「源内は、何処へ?」
桔梗が鋭く四囲を見回しながら、将夜に尋ねる。
「屋根の上で待ってくれているようだ。せっかくのお招き、存分に楽しませてもらうとしよう」
「あの身体で、なんという身軽さ……信じられませぬ」
「志乃殿を頼む。そして、お前たちはすぐこの屋敷から離れろ」
「しかし、神崎様は……」
「おれの事は気にするな。あやつは、お前たちがどうこうできる相手ではない」
桔梗は唇を噛んだ。
突き放すような言われようだったが、事実なので反論できない。源内から発せられる妖気が、菊也の変じた獣人とは桁違いであることをひしひしと感じていたのだ。
「わかりました」
一旦頷きかけたが、桔梗は弾かれたように顔を上げた。「でも――」
「何だ?」
「死なないで、下さい」
ひどく真剣な少女の眸であった。
将夜は微笑むと、軽くその頭を押さえた。
「さっきはすまなかったな、剣を振るったりして。そなた――名は何と言う」
「桔梗と申します」
忍びは本名を明かさない。それが素直に名乗っていた。
「桔梗か。佳 い名だ」
少女はその美しい眸を瞠 った。やさしく自分の髪を撫でる将夜の掌 を通して、一種の気が伝わってくる。それが将夜の内部で起こった劇的な変化を、まざまざと桔梗に感得させたのである。
「か、神崎様。もしや……」
「そういうことだ」
言い終わるよりはやく、将夜の身体は宙に躍っていた。
壁や柱を二三度蹴って、身体を上に飛ばす。瞬く間に、その姿は天井の穴から外へ消えていた。
血の海の中で痙攣していた筈の菊也が、緩慢な動作ながら起き上がろうとしているのである。
とっさに飛びすさった桔梗の目に、初めて焦りの色が動いた。
獣化したとは言っても元は人の姿であり、腕や足が増えたわけではない。基本的に人体と構造が同じであるなら、人において急所とされる処を
それなのに……。
傷は確かに負っている。血も多量に流れている。断つべき処も断った。ところが、構造的にもはや動かせる筈のない部位が、まだ動き続けているのである。
(これが、魔力……?)
俄かには信じられないが、現に目の前で起こっていることは否定しようがない。
菊也の目が真っ赤に染まり、今にも炎となって燃え上がるかと見えた。
猟師が最も恐れるのは、手負いの獣だと言う。
ましてやそれが、魔族だとしたら……。
「王妃の舞いを途中で遮るとは、無粋な客人よな」
桔梗が梟を撃った時、源内の顔に一瞬動揺が走ったようであったが、それもこちらを油断させるための芝居だったのだろうか。源内は今、さもおかしそうに笑っていた。
そして、菊也に合図する如く、ゆらりと片腕を上げる。
(こ、ここまでか……)
桔梗も、この時ばかりは死を覚悟した。
源内の手が翻った。〈
轟音が、響いた。
さすがの桔梗も、一瞬何が起こったのかわからなかった。
飛びかかる寸前だった菊也と、決死の覚悟でそれを迎え撃とうとする御庭番たちのちょうど真ん中に、何かが落下したのである。
まるで夜空の果てから、一個の隕石が月影を掠め、この屋敷の上に落ちてきたかのように。
落下点を中心に強い風が発生し、四囲を圧した。
御庭番の中には吹き飛ばされて、壁に激突した者もいる。
桔梗は風に逆らわず、飛ばされながら後ろ向きに宙返りをし、圧力を緩和させつつ軽やかに着地した。
「これ以上の狼藉は、このおれが許さぬ」
隕石ではなかった。
その者は、ゆっくりと立ち上がった。
白皙の面が、月の光に濡れている。
「か、神崎……様……」
茫然と桔梗は呟いた。
将夜が桔梗をちらっと見遣って、軽く笑った。その口元から覗く歯が長く伸び、先が尖っているのに桔梗は気づいた。
唸り声を上げつつ、菊也が猛然と飛びかかったのは、その時であった。
「危ないッ」
思わず桔梗は叫んでいた。
将夜の身体がすっと沈んだ。菊也はその頭の上を躍り越える。
御庭番たちが、ざっと左右に展開する。
波のように分かれた御庭番の間に、菊也は四足で着地した。動きが完全に、獣のそれだった。
御庭番の刀が、獣を囲う檻のように並び立つ。
ぱちん、
将夜の刀の鍔が鳴った。
菊也は振り返った。まるで不思議なものでも眺めるように、じっと将夜を凝視する。
と、ふらふらと立ち上がった。
赤く輝いていた双眼が、急に光を失い、白濁していく。
「りゅか……おおん」
掠れた声の合間に、ごぼごぼと血の溢れる音がする。歩こうとして足が縺れ、がっくりと膝を突く。両手を高く挙げた。
「
叩頭する姿勢で、菊也は崩れ落ちた。みるみる厚い血の海が広がってゆく。
しかし、将夜はもうそれを視野に留めてはいない。
「今度はお前の番だな」
涼やかに源内の方へ向き直った。すっと桔梗が将夜の脇に並び立ち、忍び刀を構える。
「ぐわッ、ぐわッ、ぐわッははははは!」
哄笑が、上がった。
「余を……余を斃そうと言うか。だんぴいる風情が、身の程も弁えず……」
柱や梁が鳴動する如き大音声であった。更にそれは、途中で咆哮に変わる。
長く長く尾を引く、もの凄まじき吼え声。
荒野でたった一人長嘯する、孤独で傲慢な王の姿を彷彿とさせた。
「来るなら、来てみよ」
奇妙なことに、その姿が一瞬で掻き消えていた。
「源内は、何処へ?」
桔梗が鋭く四囲を見回しながら、将夜に尋ねる。
「屋根の上で待ってくれているようだ。せっかくのお招き、存分に楽しませてもらうとしよう」
「あの身体で、なんという身軽さ……信じられませぬ」
「志乃殿を頼む。そして、お前たちはすぐこの屋敷から離れろ」
「しかし、神崎様は……」
「おれの事は気にするな。あやつは、お前たちがどうこうできる相手ではない」
桔梗は唇を噛んだ。
突き放すような言われようだったが、事実なので反論できない。源内から発せられる妖気が、菊也の変じた獣人とは桁違いであることをひしひしと感じていたのだ。
「わかりました」
一旦頷きかけたが、桔梗は弾かれたように顔を上げた。「でも――」
「何だ?」
「死なないで、下さい」
ひどく真剣な少女の眸であった。
将夜は微笑むと、軽くその頭を押さえた。
「さっきはすまなかったな、剣を振るったりして。そなた――名は何と言う」
「桔梗と申します」
忍びは本名を明かさない。それが素直に名乗っていた。
「桔梗か。
少女はその美しい眸を
「か、神崎様。もしや……」
「そういうことだ」
言い終わるよりはやく、将夜の身体は宙に躍っていた。
壁や柱を二三度蹴って、身体を上に飛ばす。瞬く間に、その姿は天井の穴から外へ消えていた。