第五十八話 〈りゅかおおん〉の恐るべき計画のこと
文字数 1,905文字
何度目かの密会の折、源内は恐るべき計画を男に告げた。
将軍のお膝元である江戸に、なんと己 が王国を築こうというのである。
源内は――正確には源内に憑いている〈りゅかおおん〉は、人に噛み付き、己が魔力を注ぎ込むことによって、その対象を眷属 とすることができる。一連のあやかし騒ぎが、〈りゅかおおん〉に噛まれ、獣人と化した者の仕業 であることは言うまでもない。
一度眷属となれば、王の命 には絶対服従である。無辜の人々を虐殺することに何の躊躇も示さない。ただ、獣人と化すのは満月の夜のみで、夜が明ければ獣人の時の記憶の一切は消えてしまう。
ただ、江戸の人々にとって幸いだったのは、〈りゅかおおん〉がまだ本来の力を全て取り戻してはいなかったことだ。もし〈りゅかおおん〉が完全体となっていれば、眷属に噛まれた者までが狼憑きとなってしまう。そうなったが最後、後は鼠算式に増えていき、今頃江戸は大恐慌に陥っていたに違いない。
本来〈りゅかおおん〉は、魔力の十分な恢復 を辛抱強く待ちながら、一歩ずつ王国の地歩を固めていくつもりだったのである。
あやかし騒ぎは、一種の実験であった。
実験の目的は、有事の際、江戸の町がどの程度の対処能力を持つかを見究めることにあった。
結果として、公儀隠密集団である御庭番の機動力、情報収集力、戦闘力が彼の予想を遥かに上回る事実が明らかになった。
御庭番はその高度な組織力と効率的な分析能力によって、満月の夜に暴れる獣人が実は操られた存在であることを見抜いた。彼らの捜査線上には既に巷 で評判の平賀源内が浮かび、網は着々と絞られつつあったのである。
ここまではやく公儀の手が自分に伸びてくるとは、〈りゅかおおん〉にとって大きな誤算であった。
そうした場合の備えとして、先に田沼意次と誼 を通じておいたため、すぐに暗殺命令が下 ることはなかったが、呑気に構えてはいられなくなった。そこで慌てて橋本町に新居を建て、密かにこれを要塞化した。――安永八年(一七七九)夏のことである。
源内の話を聞いて、斎木もさすがに仰天した。
かけられていた催眠の一部が解け、少し理性が働いたおかげで、漸く己の立場を思い出したのだ。
(私は何をしているのだ? なんということに首を突っ込んでしまったのだ……)
言葉巧みに言い寄られ、さりげなく自尊心をくすぐられ、気づけばのっぴきならぬ立場に追い込まれていた。己の迂闊 さを思い知ったのは、梯子 を外された後だったのである。
実はこの〈りゅかおおん〉と名乗る南蛮魔族は、内心焦っていたのだ。未開の国と軽く見ていたのに思わぬしっぺ返しを喰らい、急遽対策を練る必要に迫られた。
そこで目を付けたのが、自尊心が高すぎ、現状に常に鬱々たる不満を持っている斎木だったのである。
斎木は惧 れ、惑い、悩んだ。
斎木の立場としては、〈りゅかおおん〉の大それた計画は、直ちに「畏れながら」とお上に訴え出るべきものである。
しかし、その結果はどうなるか。待っているのは己が身の破滅ではないのか。いくら追い詰められているとは言え、南蛮魔族の力が端倪 すべからざるものであることは、ある意味斎木が誰よりも知悉 している。
おそらく、それも含めて〈りゅかおおん〉の計算のうちだったのであろう。
先にしっかりと恐怖を与えておき、その効果を充分確かめた上で、
『幕府を裏切り、こちらに与すると誓うなら、我 が王国に貴族の身分で迎えようではないか』
魅惑的な提案だった。ひりひりする危険と隣り合わせなだけに一層。
ただ、幕府を欺くことが容易 い筈はない。
重大な秘密を報告しなかったのみならず、密かに敵と通じていたことが発覚した暁には、斎木の命などいくつあっても足りぬ。
しかも、養生所の地下牢の見張りをしているのは、〈りゅかおおん〉ですら警戒する御庭番なのである。
遅かれ早かれ、知られずにはおくまい。
頭を絞った末、斎木はある策を思いつく。
――志乃をわざと獣人に襲わせるのだ。
さすれば、いかに御庭番とて、己と源内の関係に気づくことはあるまいと考えたのである。
『私が密かに与していることが露見すれば、あなた様の御計画に齟齬をきたす恐れもありましょう。そこで、私に策がございます――』
冷や汗を垂らしながら斎木は必死に語った。志乃を危険に晒すことに対する罪悪感はあったが、己の保身には代えられなかった。
『やってみるがよい』
やがて、笑いを噛み殺したように、〈りゅかおおん〉が言った。
『ありがたき幸せ』
安堵のあまり、斎木は思わず跪拝 した。その姿は、貴族どころか忠実な下僕以外の何ものでもなかった。
将軍のお膝元である江戸に、なんと
源内は――正確には源内に憑いている〈りゅかおおん〉は、人に噛み付き、己が魔力を注ぎ込むことによって、その対象を
一度眷属となれば、王の
ただ、江戸の人々にとって幸いだったのは、〈りゅかおおん〉がまだ本来の力を全て取り戻してはいなかったことだ。もし〈りゅかおおん〉が完全体となっていれば、眷属に噛まれた者までが狼憑きとなってしまう。そうなったが最後、後は鼠算式に増えていき、今頃江戸は大恐慌に陥っていたに違いない。
本来〈りゅかおおん〉は、魔力の十分な
あやかし騒ぎは、一種の実験であった。
実験の目的は、有事の際、江戸の町がどの程度の対処能力を持つかを見究めることにあった。
結果として、公儀隠密集団である御庭番の機動力、情報収集力、戦闘力が彼の予想を遥かに上回る事実が明らかになった。
御庭番はその高度な組織力と効率的な分析能力によって、満月の夜に暴れる獣人が実は操られた存在であることを見抜いた。彼らの捜査線上には既に
ここまではやく公儀の手が自分に伸びてくるとは、〈りゅかおおん〉にとって大きな誤算であった。
そうした場合の備えとして、先に田沼意次と
源内の話を聞いて、斎木もさすがに仰天した。
かけられていた催眠の一部が解け、少し理性が働いたおかげで、漸く己の立場を思い出したのだ。
(私は何をしているのだ? なんということに首を突っ込んでしまったのだ……)
言葉巧みに言い寄られ、さりげなく自尊心をくすぐられ、気づけばのっぴきならぬ立場に追い込まれていた。己の
実はこの〈りゅかおおん〉と名乗る南蛮魔族は、内心焦っていたのだ。未開の国と軽く見ていたのに思わぬしっぺ返しを喰らい、急遽対策を練る必要に迫られた。
そこで目を付けたのが、自尊心が高すぎ、現状に常に鬱々たる不満を持っている斎木だったのである。
斎木は
斎木の立場としては、〈りゅかおおん〉の大それた計画は、直ちに「畏れながら」とお上に訴え出るべきものである。
しかし、その結果はどうなるか。待っているのは己が身の破滅ではないのか。いくら追い詰められているとは言え、南蛮魔族の力が
おそらく、それも含めて〈りゅかおおん〉の計算のうちだったのであろう。
先にしっかりと恐怖を与えておき、その効果を充分確かめた上で、
それ
はあやしく囁いた。『幕府を裏切り、こちらに与すると誓うなら、
魅惑的な提案だった。ひりひりする危険と隣り合わせなだけに一層。
ただ、幕府を欺くことが
重大な秘密を報告しなかったのみならず、密かに敵と通じていたことが発覚した暁には、斎木の命などいくつあっても足りぬ。
しかも、養生所の地下牢の見張りをしているのは、〈りゅかおおん〉ですら警戒する御庭番なのである。
遅かれ早かれ、知られずにはおくまい。
頭を絞った末、斎木はある策を思いつく。
――志乃をわざと獣人に襲わせるのだ。
さすれば、いかに御庭番とて、己と源内の関係に気づくことはあるまいと考えたのである。
『私が密かに与していることが露見すれば、あなた様の御計画に齟齬をきたす恐れもありましょう。そこで、私に策がございます――』
冷や汗を垂らしながら斎木は必死に語った。志乃を危険に晒すことに対する罪悪感はあったが、己の保身には代えられなかった。
『やってみるがよい』
やがて、笑いを噛み殺したように、〈りゅかおおん〉が言った。
『ありがたき幸せ』
安堵のあまり、斎木は思わず