第六十一話 囚われの女王と志乃の推理のこと
文字数 2,343文字
「父上、何をなさっておいでなのですか。こんな夜更けに……」
何処に身を隠していたのか、待ち構えていたような様子が声音に表われていた。
斎木は振り返った。
「志乃か。月が佳いので、散歩をしていただけだ。お前こそ、どうした? こんな処にいて、身体が冷えないのか。はやく部屋へ戻――」
最後は娘を思い遣る父らしい言葉だったが、志乃は凛然とした態度で相手の言葉を遮った。
「以前から、父上が夜更けに外へおいでになるのは気づいておりました。でも、まさかこの涸れ井戸に秘密があるとは知りませんでした」
斎木のくぐもった笑いが、闇を僅かに揺すった。
「秘密だと? 何を子供じみたことを……」
「この下には、どなたがいらっしゃるのです?」
「ただの穴だ。水が涸れて久しく、底には瘴気が溜まっている。もし誤って人が落ちれば、瘴気の毒に中 てられてすぐに死ぬ。故にそのようなことがないよう蓋をしておるだけだ」
「地下牢に閉じ込められている狼憑きの男は、その御方を守っているのではございませぬか」
びくりと斎木の肩が震えた。
「先程から何を申しておるのだ? 気でもふれたか」
「考えてみれば、奇妙なことでございました。狼憑きに関して、父上はわたくしに異国の文献を調べるようお命じになりましたが、実際の狼憑きには決してお近づけになりませんでした」
「娘を危険な目に遭わせまいとする親心がわからんのか」
「本当に、そうだったのでしょうか」
「なんだと?」
斎木の声には明らかに怒気が滲んでいる。それでも志乃は怯まない。
「わたくしは、父上から狼憑きの凶暴性、残酷性を繰り返し聞かされ、知らず知らずのうちに思い込まされていたのです。狼憑きとは、ただただ凶暴で残忍な魔物なのだと。
実際、わたくしを襲った獣人は、血に飢えた怪物に違いありませんでした。しかし、同族の間に個体差がないと決めつけるのは早計に過ぎます。人が一人ひとり違うように、魔族もそれぞれ異なる筈なのです。
満月の夜に無辜の人々を無残に殺し続けた獣人と、地下牢の狼憑きを一概に同じものだと考えるのは学問的に間違っております。しかし、いくらわたくしが未熟者とは言え、こんな簡単なことに何故今まで気づかなかったのでしょうか。
それは、わたくしには実際に地下牢へ下り、この目で狼憑きを見ることが許されていなかったからです。そして、お許しにならなかったのは――」
「志乃や」斎木の声が急に優しくなった。
「思い込みや偏見に捉われずに病と向き合うは医術の基本じゃ。その意味で、そなたの言葉は真に正しい。
だがな、魔族の研究にこの身を捧げてきた父の言葉として聞いてほしい。人の感覚で魔族を判断することは、極めて危険なのだ。あえて断言しよう。狼憑きに個体差があるとすれば、それはその戦闘能力の差にすぎぬ。
我々が〈情〉や〈心〉と呼ぶものは、獣化した後の彼奴 らには全く認められぬ。故に狼憑きは、危険極まりない怪物なのだ」
「〈くいいん〉と〈まあち〉という英吉利語の意味を、父上は御存知でしょうか」
「な、何?」
「神崎様がお尋ねになりました」
「神崎めが? あやつが何故、英吉利語など存じておる?」
「今日、地下牢で狼憑きの男が口するのを聞いたそうです」
地下の室 から戻った将夜が志乃に尋ねたのは、自分を攻撃しようとした狼憑きが発した、異国語らしい言葉の意味だったのだ。
「あ、あの時、か。それで……そなたは何と?」
「〈くいいん〉は〈女王〉、〈まあち〉は〈三月〉という意味だと申し上げましたが、その瞬間、わたくし自身はっと致しました。黙って頷く神崎様を見て、わたくしたちが同じ結論に達したことがわかりました。〈三月〉即ち〈弥生〉。あの狼憑きの男は弥生様を女王とみなし、守り続けているのです。そうでございますね、父上」
「たわけたことを……そんな莫迦な話を本気で信じているのか」
「たとえ一見いかに荒唐無稽であろうと、論理的に導き出された結論は信じるしかない。それをわたくしに教えて下さったのは、父上、あなたではありませんか」
志乃の声が震えた。
「神崎様が五つの時からとすれば、十三年、母君である弥生様をこんな場所に閉じ込めておくなど、何と恐ろしいことを……。それこそ鬼の所業です。どうか、どうか、こんな非道 なことは今すぐお止め下さい。この通りでございます」
志乃はその場に跪くと、声を絞って泣いた。
風が渡って、草木が互いに囁き交わすように鳴った。
やがて、斎木は静かに歩み寄ってくると、志乃の傍らに屈み込み、その肩に手を置いた。
「そなたの言いたいことはわかった。お前の推察は正しい。だが、今は何も言うな。よいか、私と弥生殿は旧知の間柄、このことに一番心を痛めているのは誰だと思う? そう、この私だ。
しかし、御庭番の監視がかくも厳しい中で、私が下手に動けばどうなる? 今度こそ弥生どのは誰の手も届かぬところに連れ去られるか、あるいは――いや、そんなことは私がさせぬ。
よいか、時を待つのじゃ。そなたに、本当のことを教えよう。私がこの仕事を志願したのは、実は弥生どのを救うためなのだ。それ以外に、弥生どのをこの牢から解き放つ方法はないと思ったからなのじゃ」
「で、では――」
志乃が涙の溜まった顔を思わず上げた時である。
彼女の鼻と口元に、刺激臭のする布が押し当てられた。
「ち、父上……な、何を……」
後は言葉にならず、志乃の身体は地に頽 れた。
肩で息を吐きつつ、斎木は振り返った。
「こ、これでよろしいか」
いつ来たのか、井戸の縁に一羽の梟が止まっていた。それは爛々と輝く双の目で、ぐったりと横たわる志乃の姿を凝然と見下ろしていた。
「ソレデ、ヨイ。ソノ娘ハ、ワガ屋敷ヘ運べ」
くるりと頭を回転させて、梟がしゃべった。
何処に身を隠していたのか、待ち構えていたような様子が声音に表われていた。
斎木は振り返った。
「志乃か。月が佳いので、散歩をしていただけだ。お前こそ、どうした? こんな処にいて、身体が冷えないのか。はやく部屋へ戻――」
最後は娘を思い遣る父らしい言葉だったが、志乃は凛然とした態度で相手の言葉を遮った。
「以前から、父上が夜更けに外へおいでになるのは気づいておりました。でも、まさかこの涸れ井戸に秘密があるとは知りませんでした」
斎木のくぐもった笑いが、闇を僅かに揺すった。
「秘密だと? 何を子供じみたことを……」
「この下には、どなたがいらっしゃるのです?」
「ただの穴だ。水が涸れて久しく、底には瘴気が溜まっている。もし誤って人が落ちれば、瘴気の毒に
「地下牢に閉じ込められている狼憑きの男は、その御方を守っているのではございませぬか」
びくりと斎木の肩が震えた。
「先程から何を申しておるのだ? 気でもふれたか」
「考えてみれば、奇妙なことでございました。狼憑きに関して、父上はわたくしに異国の文献を調べるようお命じになりましたが、実際の狼憑きには決してお近づけになりませんでした」
「娘を危険な目に遭わせまいとする親心がわからんのか」
「本当に、そうだったのでしょうか」
「なんだと?」
斎木の声には明らかに怒気が滲んでいる。それでも志乃は怯まない。
「わたくしは、父上から狼憑きの凶暴性、残酷性を繰り返し聞かされ、知らず知らずのうちに思い込まされていたのです。狼憑きとは、ただただ凶暴で残忍な魔物なのだと。
実際、わたくしを襲った獣人は、血に飢えた怪物に違いありませんでした。しかし、同族の間に個体差がないと決めつけるのは早計に過ぎます。人が一人ひとり違うように、魔族もそれぞれ異なる筈なのです。
満月の夜に無辜の人々を無残に殺し続けた獣人と、地下牢の狼憑きを一概に同じものだと考えるのは学問的に間違っております。しかし、いくらわたくしが未熟者とは言え、こんな簡単なことに何故今まで気づかなかったのでしょうか。
それは、わたくしには実際に地下牢へ下り、この目で狼憑きを見ることが許されていなかったからです。そして、お許しにならなかったのは――」
「志乃や」斎木の声が急に優しくなった。
「思い込みや偏見に捉われずに病と向き合うは医術の基本じゃ。その意味で、そなたの言葉は真に正しい。
だがな、魔族の研究にこの身を捧げてきた父の言葉として聞いてほしい。人の感覚で魔族を判断することは、極めて危険なのだ。あえて断言しよう。狼憑きに個体差があるとすれば、それはその戦闘能力の差にすぎぬ。
我々が〈情〉や〈心〉と呼ぶものは、獣化した後の
「〈くいいん〉と〈まあち〉という英吉利語の意味を、父上は御存知でしょうか」
「な、何?」
「神崎様がお尋ねになりました」
「神崎めが? あやつが何故、英吉利語など存じておる?」
「今日、地下牢で狼憑きの男が口するのを聞いたそうです」
地下の
「あ、あの時、か。それで……そなたは何と?」
「〈くいいん〉は〈女王〉、〈まあち〉は〈三月〉という意味だと申し上げましたが、その瞬間、わたくし自身はっと致しました。黙って頷く神崎様を見て、わたくしたちが同じ結論に達したことがわかりました。〈三月〉即ち〈弥生〉。あの狼憑きの男は弥生様を女王とみなし、守り続けているのです。そうでございますね、父上」
「たわけたことを……そんな莫迦な話を本気で信じているのか」
「たとえ一見いかに荒唐無稽であろうと、論理的に導き出された結論は信じるしかない。それをわたくしに教えて下さったのは、父上、あなたではありませんか」
志乃の声が震えた。
「神崎様が五つの時からとすれば、十三年、母君である弥生様をこんな場所に閉じ込めておくなど、何と恐ろしいことを……。それこそ鬼の所業です。どうか、どうか、こんな
志乃はその場に跪くと、声を絞って泣いた。
風が渡って、草木が互いに囁き交わすように鳴った。
やがて、斎木は静かに歩み寄ってくると、志乃の傍らに屈み込み、その肩に手を置いた。
「そなたの言いたいことはわかった。お前の推察は正しい。だが、今は何も言うな。よいか、私と弥生殿は旧知の間柄、このことに一番心を痛めているのは誰だと思う? そう、この私だ。
しかし、御庭番の監視がかくも厳しい中で、私が下手に動けばどうなる? 今度こそ弥生どのは誰の手も届かぬところに連れ去られるか、あるいは――いや、そんなことは私がさせぬ。
よいか、時を待つのじゃ。そなたに、本当のことを教えよう。私がこの仕事を志願したのは、実は弥生どのを救うためなのだ。それ以外に、弥生どのをこの牢から解き放つ方法はないと思ったからなのじゃ」
「で、では――」
志乃が涙の溜まった顔を思わず上げた時である。
彼女の鼻と口元に、刺激臭のする布が押し当てられた。
「ち、父上……な、何を……」
後は言葉にならず、志乃の身体は地に
肩で息を吐きつつ、斎木は振り返った。
「こ、これでよろしいか」
いつ来たのか、井戸の縁に一羽の梟が止まっていた。それは爛々と輝く双の目で、ぐったりと横たわる志乃の姿を凝然と見下ろしていた。
「ソレデ、ヨイ。ソノ娘ハ、ワガ屋敷ヘ運べ」
くるりと頭を回転させて、梟がしゃべった。