第六十話 おみよの思いと血塗られた月のこと
文字数 2,065文字
これって、どういうことなの? 将夜様なんて嫌い。将夜様のロクでなし。
急にお店の方にいらして下さらなくなった。知らぬうちに粗相 でもしてしまったのかと、心配のあまり夜もよく眠れないこともあった。それなのに、こんなのってない。こんなのひどすぎる。あんな綺麗な娘さんと仲良くなっていたなんて。でれっと鼻の下なんか伸ばしちゃって厭らしい。将夜様が、あんな方だとは知らなかった。
そうだ、あの娘さんに教えてあげなくちゃ。こんな人に近づいちゃいけませんよって。それが親切心というものだわ。だって、あたしの方が将夜様との付き合いは長いんだもの。将夜様のことは、あたしの方がよく知っているんだもの。どうしてこんなことに、もっと早く気づかなかったのかしら。あたしって、ほんとうに莫迦……。
軽く息を吸い、意を決して、それまでわざと見ないようにしていた方を振り返る――
「あっ」
おみよは、小さく叫んだ。
さっきまで確かに二人がいた一郭が、ぽっかり穴の開いたようになっているではないか。
「将夜さんたちなら、今出て行ったよ」
さりげなく、平次が言う。
「そ、そんな……あたしはちっとも……」
おみよは小走りに戸口へ寄ると、手で暖簾を押し上げて外を見た。
月が、出ていた。
妙に赤みがかって見える満月が。
二人の姿は、既に影も形も見えない。
○
屋根の上を、二つの影が凄まじい速さで疾駆している。
言うまでもなく、将夜と桔梗。
将夜は店にいた時と同じ姿だが、桔梗はいつの間にか忍び頭巾を被っている。髪が風に解けてしまわぬ用心だろう。逆に言えば、それだけ疾駆が凄まじいのだ。
段差があり、屋根と屋根の間が離れている処もある。決して走り易い場所ではないが、木戸に引っ掛かる心配がない。そして一番の利点は、最短距離で目的地に達することができる点だ。
「どういうことだ? そんな話は志乃殿から聞いてはおらんぞ」
将夜の声が切迫した感じになっているのは、今聞いた話の内容によるもので、息そのものは全く切れていない。
「私たちも最近漸く知り得たことです」
「ちッ……」
「それにしても、神崎様が志乃様にそんなことをお尋ねになっていたとは……」
「なんでこういう時に限って盗み聞きしてないんだよ!」
「神崎様が地下の室から戻った後、帰り際に志乃様と言葉を交わしたことは知っています。でも、お二人の口の動きが見えず、神崎様の症状とその対処法に対する内容らしいと当たりをつけるのがせいいっぱいでした」
将夜は己の病について尋ねるふりをして、
「凄腕の御庭番を出し抜けたことを喜ぶべきなんだろうな」
「神崎様は志乃様と話しながら、わたしに口の形を見せぬよう巧みに身体を動かして、わたしの視界に死角をつくり続けました。常人にそんなことができる筈がありません。あの時は既に神崎様の五感が冴え渡る時刻になっていたから、初めて可能になったことです。いくら神崎様とて、昼間ならわたしを出し抜けはしません」
「そう強調するな。そなた、恐ろしいばかりの負けず嫌いだな」
「事実を述べているに過ぎませぬ」
桔梗は「それに――」と続けた。
「盗み聞きとは心外です。役目上、やむなくやっているだけです」
少女はほんの少しだけ唇を尖らせて呟いた。「わたしだって、馬に蹴られて死にたくはありませぬ」
「何を言う。おれと志乃殿は、そんな関係ではない!」
桔梗の呟きが、〈人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死ねばよい〉という都都逸 にかけられているのは言うまでもあるまい。
「神崎様こそ、そうむきになって否定なさらずともようございます。今はこんな話をしている場合では――」
「その通りだ。おれは、あんなことを志乃殿に尋ねるべきではなかった。それにしても、まさか……」
志乃殿が斎木の実の子でないとは。
その言葉は喉に呑み込む。
(道理で、あの二人の面立ちが似ておらぬわけだ)
定町廻りに尋ねられた時、志乃は全くの偽名ではなく、あえて斎木の名を逆さにし、しかも将夜にも聞こえるようにはっきりと口にした。
また、己の名は偽らずに本名のまま伝えた。
自ら意識していようといまいと、それは「このお方にもう一度会えるように」といういじましい恋のまじないであった。
僅かでも手がかりを残しておけば、それを辿って男は女に会いに来てくれるやもしれぬ。
そんな女心を将夜は知る由もない。だが、ひとつだけ将夜にわかっていることがあった。
(このままでは、志乃どのが危ない!)
心の逸 りを如実に映すように、将夜の足が速まる。
それまでも目にも止まらぬ疾駆だったのだが、桔梗は慌てることなく、またすっと将夜の横に並ぶ。
二人の行く手に月が浮かんでいる。
血塗られたような満月が。
ふっと将夜の身体が沈んだ。
次の瞬間――
将夜の足は屋根瓦を強く蹴り、赤い月が翳るほど高く跳躍した。
急にお店の方にいらして下さらなくなった。知らぬうちに
そうだ、あの娘さんに教えてあげなくちゃ。こんな人に近づいちゃいけませんよって。それが親切心というものだわ。だって、あたしの方が将夜様との付き合いは長いんだもの。将夜様のことは、あたしの方がよく知っているんだもの。どうしてこんなことに、もっと早く気づかなかったのかしら。あたしって、ほんとうに莫迦……。
軽く息を吸い、意を決して、それまでわざと見ないようにしていた方を振り返る――
「あっ」
おみよは、小さく叫んだ。
さっきまで確かに二人がいた一郭が、ぽっかり穴の開いたようになっているではないか。
「将夜さんたちなら、今出て行ったよ」
さりげなく、平次が言う。
「そ、そんな……あたしはちっとも……」
おみよは小走りに戸口へ寄ると、手で暖簾を押し上げて外を見た。
月が、出ていた。
妙に赤みがかって見える満月が。
二人の姿は、既に影も形も見えない。
○
屋根の上を、二つの影が凄まじい速さで疾駆している。
言うまでもなく、将夜と桔梗。
将夜は店にいた時と同じ姿だが、桔梗はいつの間にか忍び頭巾を被っている。髪が風に解けてしまわぬ用心だろう。逆に言えば、それだけ疾駆が凄まじいのだ。
段差があり、屋根と屋根の間が離れている処もある。決して走り易い場所ではないが、木戸に引っ掛かる心配がない。そして一番の利点は、最短距離で目的地に達することができる点だ。
「どういうことだ? そんな話は志乃殿から聞いてはおらんぞ」
将夜の声が切迫した感じになっているのは、今聞いた話の内容によるもので、息そのものは全く切れていない。
「私たちも最近漸く知り得たことです」
「ちッ……」
「それにしても、神崎様が志乃様にそんなことをお尋ねになっていたとは……」
「なんでこういう時に限って盗み聞きしてないんだよ!」
「神崎様が地下の室から戻った後、帰り際に志乃様と言葉を交わしたことは知っています。でも、お二人の口の動きが見えず、神崎様の症状とその対処法に対する内容らしいと当たりをつけるのがせいいっぱいでした」
将夜は己の病について尋ねるふりをして、
あること
を志乃に問うた。病の症状を述べる中に、さりげなく本当に訊きたいことを混ぜた。文脈としてはかなり妙なものとなってしまったが、聡明な志乃は瞬時に理解し、答えてくれた。「凄腕の御庭番を出し抜けたことを喜ぶべきなんだろうな」
「神崎様は志乃様と話しながら、わたしに口の形を見せぬよう巧みに身体を動かして、わたしの視界に死角をつくり続けました。常人にそんなことができる筈がありません。あの時は既に神崎様の五感が冴え渡る時刻になっていたから、初めて可能になったことです。いくら神崎様とて、昼間ならわたしを出し抜けはしません」
「そう強調するな。そなた、恐ろしいばかりの負けず嫌いだな」
「事実を述べているに過ぎませぬ」
桔梗は「それに――」と続けた。
「盗み聞きとは心外です。役目上、やむなくやっているだけです」
少女はほんの少しだけ唇を尖らせて呟いた。「わたしだって、馬に蹴られて死にたくはありませぬ」
「何を言う。おれと志乃殿は、そんな関係ではない!」
桔梗の呟きが、〈人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死ねばよい〉という
「神崎様こそ、そうむきになって否定なさらずともようございます。今はこんな話をしている場合では――」
「その通りだ。おれは、あんなことを志乃殿に尋ねるべきではなかった。それにしても、まさか……」
志乃殿が斎木の実の子でないとは。
その言葉は喉に呑み込む。
(道理で、あの二人の面立ちが似ておらぬわけだ)
定町廻りに尋ねられた時、志乃は全くの偽名ではなく、あえて斎木の名を逆さにし、しかも将夜にも聞こえるようにはっきりと口にした。
また、己の名は偽らずに本名のまま伝えた。
自ら意識していようといまいと、それは「このお方にもう一度会えるように」といういじましい恋のまじないであった。
僅かでも手がかりを残しておけば、それを辿って男は女に会いに来てくれるやもしれぬ。
そんな女心を将夜は知る由もない。だが、ひとつだけ将夜にわかっていることがあった。
(このままでは、志乃どのが危ない!)
心の
それまでも目にも止まらぬ疾駆だったのだが、桔梗は慌てることなく、またすっと将夜の横に並ぶ。
二人の行く手に月が浮かんでいる。
血塗られたような満月が。
ふっと将夜の身体が沈んだ。
次の瞬間――
将夜の足は屋根瓦を強く蹴り、赤い月が翳るほど高く跳躍した。