第七十話 菊也は狂乱し、御庭番は必殺の陣を敷くこと
文字数 1,131文字
きき、ききィ――
嗤っていた。垂れた菊也の首が。剥き出すように口に並んでいるのは、歯というより牙という呼称が相応しいものだった。ぎっしり並んだそれらがこすり合わされ、身の毛もよだつ摩擦音を立てているのである。
「王妃よ、そなたの舞いを見せてやるがよい! 華麗なる血祭りの舞いを!」
人形の如く不自然な動きで、首が少しづつ上がってゆく。
上がりきった瞬間、正面を向いた。
かっと、眦 が裂けるほど見開かれた目に、妖しい光が宿る。
吼えた。
女形の喉から出たとは信じられぬ野太い声で。
源内が、菊也を荒々しく抛り投げる。
纏っていた豪奢な衣服がちぎれ飛び、露になった身体に無数の針が突き立った――ように見えた。だが実際は、肌を突き破って一斉に伸びた体毛なのである。全身が剛毛に覆われるのと、四肢の巨大化が同時に進行し、そのまま御庭番の陣の中に突っ込む。
「ぐぅあァ!」
刀で斬られても槍で突かれても全く声を立てない忍びが、思わず絶叫していた。
菊也――いや少し前まで菊也だった獣人が、一人の御庭番の肩にかぶりついているのである。
噛みつかれた男は必死に振り放そうとするが、むしろそうすればするほど、刃のような牙と爪はますます深く肉に喰い込み、多量の血を体内より溢れさせる。
やがて、ばりばりと骨の砕かれる不気味な音がした。腕を一本、付け根から食いちぎられた男が、虹の如く空中に血を撒きつつ斃れる。
しかし、さすがは鍛え抜かれた御庭番たちである。怯むことなく陣を組み直すと、嵐の如く獣人に殺到した。
〈袋〉の陣。
忍びと武士の最大の違いは、武技に美学を持ち込むか否かにある。武士は争いの場においても美しくあろうとするので、常に正々堂々とあらぬばならぬ。
元禄の世を震撼させた赤穂浪士討ち入り事件の折も、吉良邸の侍のうち背中に傷を負った者は、
――武士の風上にも置けぬやつ。
と軽侮の的になったと言う。
背中に傷を負うということは、即 ち敵に後ろを見せて逃げ出した証拠だとみなされた故である。
忍びに、そんな美学はない。戦いとは、勝つことが全てだ。美しい敗北には一片の意義もない。卑怯でも無様でも、勝たねばならぬ。
忍びの戦 は常に合理的で、無駄がない。最速且つ最少の動きで相手に致命傷を与えること、それを極限まで追求したのが忍びの技なのである。
複数の忍びが陣形を整え、前後左右、また頭上から一気に攻勢をかけてきた場合、一人でそれを防ぐことは、いかな剣の達人をもってしても不可能な筈であった。
この陣は〈袋〉と呼ばれる。いかにも忍びの命名らしく、味もそっけもないが、そこにかえって凄みがある。一旦呑み込まれたら、息の根が止まるまで絶対に出ることのできぬ、恐怖の〈袋〉であった。
嗤っていた。垂れた菊也の首が。剥き出すように口に並んでいるのは、歯というより牙という呼称が相応しいものだった。ぎっしり並んだそれらがこすり合わされ、身の毛もよだつ摩擦音を立てているのである。
「王妃よ、そなたの舞いを見せてやるがよい! 華麗なる血祭りの舞いを!」
人形の如く不自然な動きで、首が少しづつ上がってゆく。
上がりきった瞬間、正面を向いた。
かっと、
吼えた。
女形の喉から出たとは信じられぬ野太い声で。
源内が、菊也を荒々しく抛り投げる。
纏っていた豪奢な衣服がちぎれ飛び、露になった身体に無数の針が突き立った――ように見えた。だが実際は、肌を突き破って一斉に伸びた体毛なのである。全身が剛毛に覆われるのと、四肢の巨大化が同時に進行し、そのまま御庭番の陣の中に突っ込む。
「ぐぅあァ!」
刀で斬られても槍で突かれても全く声を立てない忍びが、思わず絶叫していた。
菊也――いや少し前まで菊也だった獣人が、一人の御庭番の肩にかぶりついているのである。
噛みつかれた男は必死に振り放そうとするが、むしろそうすればするほど、刃のような牙と爪はますます深く肉に喰い込み、多量の血を体内より溢れさせる。
やがて、ばりばりと骨の砕かれる不気味な音がした。腕を一本、付け根から食いちぎられた男が、虹の如く空中に血を撒きつつ斃れる。
しかし、さすがは鍛え抜かれた御庭番たちである。怯むことなく陣を組み直すと、嵐の如く獣人に殺到した。
〈袋〉の陣。
忍びと武士の最大の違いは、武技に美学を持ち込むか否かにある。武士は争いの場においても美しくあろうとするので、常に正々堂々とあらぬばならぬ。
元禄の世を震撼させた赤穂浪士討ち入り事件の折も、吉良邸の侍のうち背中に傷を負った者は、
――武士の風上にも置けぬやつ。
と軽侮の的になったと言う。
背中に傷を負うということは、
忍びに、そんな美学はない。戦いとは、勝つことが全てだ。美しい敗北には一片の意義もない。卑怯でも無様でも、勝たねばならぬ。
忍びの
複数の忍びが陣形を整え、前後左右、また頭上から一気に攻勢をかけてきた場合、一人でそれを防ぐことは、いかな剣の達人をもってしても不可能な筈であった。
この陣は〈袋〉と呼ばれる。いかにも忍びの命名らしく、味もそっけもないが、そこにかえって凄みがある。一旦呑み込まれたら、息の根が止まるまで絶対に出ることのできぬ、恐怖の〈袋〉であった。