第七話 六尺は当時で言えば十分巨人のこと

文字数 1,169文字

 提灯(ちょうちん)を手にした女が、必死に足をはやめていた。
 しかし、どんなに急いでも、後ろの足音は遠ざかってくれない。ぴたりと同じ距離を保って付いてくる。
 (あたか)も肉食獣が、狙いを定めた獲物を、じりじりと追い詰めてゆくように。
 そのくせ、幾度振り返っても何も見えない。 
 提灯の明かりというのは、本来足元を照らすためのものであり、照射範囲はごく狭い。その範囲以外は、闇に塗り潰されている。
 ちょうど武家屋敷が立ち並ぶ一廓で、昼でも人通りの少ない(ところ)だ。まして日が暮れてからは――
 小走りに歩き始めると、また足音が聞こえる。

 ひた、
 ひた、
 ひた、

 下駄や草履ではない。もっと柔らかく地面に密着する音。
(佳イ、音ダ)
 耳元で声がした。
(しん)(ぞう)ガ、小兎ノヨウニ、跳ネテオル)
 足音は、依然として同じ間隔で背後にある。
「――あ、あやかし?」
 頭から冷水でも浴びたように総身(そうみ)の毛が逆立つ。
 腋や乳の下に、じっとりと厭な汗が滲む。
(脈打ツ血ミドロノ心ノ臓ヲ掴ミ出シ、貪リ喰ラワバ、サゾ(うま)カロウ)
 普通の娘なら昏倒してもおかしくない状況だが、なかなか気丈な性格らしく、懸命に歩を運び続ける。
(ソノ恐怖ニトラワレタ息遣イ、タマラヌ)
 ふっと、足音が消えた。
 突然落ちてきた静寂は、足音に勝る恐怖だった。

 刹那。
 凄まじい風が、女の頭上を吹き抜けた。
 陰風(いんぷう)とでも言うのか、生臭く、且つ骨の髄まで染み込んでくる氷の風。
 

は、ぴたりと女の前に着地した。
 闇の中から、巨大な四足獣の如き影が滲み出る。
「…………!」
 細かい震えが女の足の先から這い上がり、髪の根にまで伝わってくる。
 ばさっと提灯が落ちた。
 たちまち炎が紙を()めて燃え上がる。束の()明度を増した空間に四足獣の輪郭が浮かび上がり、同時に女の口から悲鳴が(ほとばし)った。 
 毛に覆われた口は尖り、端からは牙が覗いている。
 血に飢えた猛獣以外の何ものでもない。
 しかし、双の目は――
 明らかに人のものだった。
 極度の恐怖に蹂躙(じゅうりん)されながらも、僅かに残った理性が女の意識に呼びかけた。
 ――この目には見覚えがある、と。
 
 後ずさるも、たちまち板塀に阻まれる。
 次の瞬間、それはなんと後足で立ち上がった。
 六尺(一八○センチ)を優に超えている。小柄な女の目には、聳え立つが如く映ったに違いない。
 一度上がった悲鳴は次の悲鳴を呼ぶ。白い華奢(きゃしゃ)な喉が断続的に痙攣する。
 全身は体毛で覆われているものの、歩み寄る動きと骨格は、紛れもなく〈人〉であった。肩や太腿(ふともも)には、はち切れんばかりに筋肉が盛り上がっている。
 唐突に、火が消えた。
 だが、周囲が闇に閉ざされる寸前、女は見た。
 近づいてくる

の双の目が赤く染まり、指先から鋭い鉤爪(かぎづめ)が伸びるのを。
「い、いやァッ……!」
 張りつめた糸が切れたように女は(うずくま)ると、両手で顔を覆って堅く瞼を閉じた。
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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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