第二十二話 珍しく〈女〉について将夜は考えること

文字数 1,609文字

 四半時(しはんとき)後。
 将夜は、新しい我が家にいた。
 簡単極まりない引越しである。
 荷物と言っては風呂敷包みが一つあるだけで、それを適当に部屋の隅に転がすと、黴臭い畳の上にごろりと肘枕(ひじまくら)で横になった。

『少しでも日当たりのよい部屋にしてくれというならわかりますが、日当たりの悪い部屋というのは、あなたもよくよく変わったお方ですな』
 浩兵衛はしきりに首を捻っていたが、将夜が微笑むばかりで何も答えないので、ようやく諦めてさっき帰ったところだ。

 長屋というのは、部屋は一間(ひとま)きり、押入れも窓もないのが普通である。構造的に穴蔵のようなものなので日当たりはすこぶる悪い。ただ、雨戸のような気の利いたものがない分、時刻によっては表の障子越しに光が差す。朝、戸を開けた瞬間朝日が差し込むような部屋は、普通の者にとってはよい部屋だろうが、将夜としては願い下げである。
 ひどく狭く、少々妙な臭いが籠もってはいるが、とりあえず横になれる場所を確保できた。ありがたいと思わねばならぬ。
 身体が休息を欲している。単に昨日から一睡もしていないから、というだけの理由ではないようだ。
 直射光に晒されていなくても、昼間はとにかく身体が重い。
(これも、夜に五感が異様に冴えるせいだろうか)
 夜の活動能力が超人的なだけに、その反動が昼に現れるのかもしれない。
(さて、ひさ江はどうしているだろう)
 独りきりになると、先ず浮かんでくるのは妹のことだった。
(おれのために、あんな目に……)
 多貴が襖を閉める時、俯いた久江の頬に赤く指の痕が付いているのを見た。その痕を思い出すと、まるで打たれたのが己であるかの如く頬に痛みを覚える。
(不甲斐ない兄のせいで、今まで世話ばかりかけた。これからはおれのことなど忘れて――)
 幸せになってほしい、という言葉を継ぎかけて、迷う。
 ひさ江にとって、幸福とは何なのだろう。
 良縁を得て、嫁ぐことか。しかし、そこには(つか)えねばならぬ舅姑(しゅうとしゅうとめ)がいる。
 たとえ彼らから可愛がられたとしても、それは誠心誠意仕えることの代償なのであって、二六時中、気の休まる時はないのではないか。

 人は、誰しもしがらみの中で生きている。
 しがらみというのは、つまり、人と人とを結ぶ、複雑なつながりの糸である。
 しがらみは、家の外にも内にもある。
 兄の数馬にしても、表祐筆の一員として、上司である組頭や同僚との関係の中ではいろいろと気苦労(きぐろう)が絶えぬに違いない。
 ただ、〈家〉にしか居場所のない女たちの方が、その身を縛る(かせ)は男よりも多く、また重いのではあるまいか。
 ひさ江のみではない。一見自由奔放に見える瑠璃にしても、しがらみという点では同じであろう。
 元々身体の弱かった母親は三年(みとせ)も前に逝去している。父・重蔵も亡き今、独り身で士道館に残っている気分はいかなるものか。直之夫婦がいくら好人物とは言え、次第に自分の居場所がなくなっていくような思いに捉われることもあるに違いない。
〈士道館の暴れ駒〉などという異名を持っているだけに、かえって水のような哀れが胸を(ひた)してくるのだった。

(女とは、哀しいものだな)
 将夜自身、冷飯喰いとして冷遇されて育った。今回の義絶の件も、事件についての詮議など二の次で、とにかく面倒ごとに巻き込まれたのを理由に(てい)よく厄介(やっかい)(ばら)いされた形だ。どうにか雨露(あめつゆ)をしのぐところは得たものの、明日からどうやって口に(のり)していけばよいかと途方に暮れる、心細い身の上である。
(しかし、いざとなればこうして陋巷(ろうこう)に身を投げ出してしまえるのは、やはりおれが男だからであろう。女では……)
 と、ここまで考えたところで意識に霧がかかり始めた。
 早朝から活動してきた肉体が、そろそろ限界を迎えたのかもしれぬ。
(他人を案じていられる身分ではないな。おれも、これからどうなることか……)
 意識の霧の中に、そんな呟きを投げ込んだのを最後に、将夜は泥のような眠りの底へと引き込まれていった。
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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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