第六十三話 夜の底で鬼は哭くこと
文字数 887文字
――源内暗殺の件で神崎将夜を味方に引き入れる手立てがある。
そう柘植に告げたのは桔梗である。
だが、その時はまだこれといった具体的な手立てを思いついてはいなかった。常に事実と結果のみを述べ、不確定な推測は決して口にしない桔梗にしては極めて珍しいことである。
(何故、あんたことを言ってしまったのか)
当の桔梗にもわからない。
こうして将夜と相対している今も、はっきりと定め難い、不可思議な激情に突き動かされてしまっている。
男の身体にしがみつき、熱に浮かされた如き長広舌 を振るう。そんな己の姿に、自分が一番戸惑っている。
(わたしは、どうかしたのではないか……)
人には、心がある。そうかもしれない。しかし、忍びに果たして心はあるのか。そんな柔らかく脆いものは修行の妨げに過ぎぬと、厳重に縄で縛り、封をしてどこかにしまい込んだ筈ではなかったか……。
神崎将夜、なんという不思議な男か。
将夜が、すっと半歩下がった。半身になる。
(斬られる)
とっさに桔梗は思った。居合が来る。だが、身体はぴくりとも反応しなかった。
(このお方に斬られるなら、それでもいい)
敵に腕を折られても、足を断たれても、とにかく生きて逃げ延びよ。そんな教えを幼少の頃から徹底して叩き込まれたくノ一が、慫慂 として我が身を刃の下に投げ出そうとしている。
秘剣胡蝶斬り。
あれがきたら、到底避 けられるものではない。
そっと眸を閉じた。
微笑みさえ、そのふっくらした頬に浮かべて。
ぱちり。
鍔が鳴った。
桔梗の顔を包んでいた頭巾が切れ、その中にまとめられていた髪が、さっと肩を覆うように斜めに流れた。
風が立ち、月光を浴びて夜の底に広がる一帯を、荒れた海の底のように見せていた。
びょ……
びょうぉおお
立ち騒ぐ潮騒に似た音の中に鬼哭 が混じっているのを、桔梗は聞いた。
女王のために地の下で哭する鬼の声が、涸れ果てた井戸を通って洩れ出ているのだろうか。
びょうびょうと鬼は啼く。
その声は、月の光と共に桔梗の骨身に沁み通る。
やがて――
一陣の風が吹き過ぎた後の夜の底。
立ち尽くす影法師は、一つきりだった。
そう柘植に告げたのは桔梗である。
だが、その時はまだこれといった具体的な手立てを思いついてはいなかった。常に事実と結果のみを述べ、不確定な推測は決して口にしない桔梗にしては極めて珍しいことである。
(何故、あんたことを言ってしまったのか)
当の桔梗にもわからない。
こうして将夜と相対している今も、はっきりと定め難い、不可思議な激情に突き動かされてしまっている。
男の身体にしがみつき、熱に浮かされた如き
(わたしは、どうかしたのではないか……)
人には、心がある。そうかもしれない。しかし、忍びに果たして心はあるのか。そんな柔らかく脆いものは修行の妨げに過ぎぬと、厳重に縄で縛り、封をしてどこかにしまい込んだ筈ではなかったか……。
神崎将夜、なんという不思議な男か。
将夜が、すっと半歩下がった。半身になる。
(斬られる)
とっさに桔梗は思った。居合が来る。だが、身体はぴくりとも反応しなかった。
(このお方に斬られるなら、それでもいい)
敵に腕を折られても、足を断たれても、とにかく生きて逃げ延びよ。そんな教えを幼少の頃から徹底して叩き込まれたくノ一が、
秘剣胡蝶斬り。
あれがきたら、到底
そっと眸を閉じた。
微笑みさえ、そのふっくらした頬に浮かべて。
ぱちり。
鍔が鳴った。
桔梗の顔を包んでいた頭巾が切れ、その中にまとめられていた髪が、さっと肩を覆うように斜めに流れた。
風が立ち、月光を浴びて夜の底に広がる一帯を、荒れた海の底のように見せていた。
びょ……
びょうぉおお
立ち騒ぐ潮騒に似た音の中に
女王のために地の下で哭する鬼の声が、涸れ果てた井戸を通って洩れ出ているのだろうか。
びょうびょうと鬼は啼く。
その声は、月の光と共に桔梗の骨身に沁み通る。
やがて――
一陣の風が吹き過ぎた後の夜の底。
立ち尽くす影法師は、一つきりだった。