第五十二話 胡蝶の羽一枚の重みのこと
文字数 1,802文字
宵闇が、漂っている。
小石川養生所の裏門を出たところに、塀の外へ松が枝をさしかけている。
「志乃様とだいぶ御親密なようですね。別れ際にお二人がお話しになっていた様など、まるで男女の睦言 のようでした」
松の樹がしゃべった。
将夜は、黙然と枝の下蔭 に立つ。
「ところで、先日は御言葉通り見張りをしませんでした。わたしの頭も撫でて下さいませぬか」
樹の精にしては声が艶 やかだ。
音もなく、一人の少女が将夜の前に跳び下りる。
「…………」
無言で佇む将夜に桔梗――ここでは千代と呼ばれている――は、不敵にも笑 んでみせた。
前回、自分を襲撃しておきながら、涼しい顔で門の外まで見送ってきた時も驚いたが、今日はまた打って変わって、いかにも公儀隠密然としている。
相手の予想を裏切るというのも、忍びの術の一つなのだろう。
正直、初めて〈だんぴいる〉だと告げられた時の衝撃は尋常ならざるものがあった。この世の全てが敵となり、自分に向かって石を投げつけてくるような気さえした。
己が排斥される存在だという孤独感は、やがて持っていき処 のない怒りに変わる。
ただでさえ、夜の将夜は闘争心が高まる。そこを御庭番なんぞにうろちょろされては、己を抑えられる自信がない。
故に前回、同じくこの門の傍らで、近づくなと警告した。おそらく将夜の全身からは剥き出しの殺気が迸 っていたに違いない。
確かにあの日は、小石川養生所を出て以後、身辺に監視者の気配は感じなかった。
少女の〈いい子〉という言葉は、その一事を指しているのであろう。
しかもこの言葉は、獣人に襲われた志乃を助けた時、将夜が志乃に対して使ったものだ。
己が監視されていることに将夜が気づいたのは、あの晩からである。
監視者は複数ではなく、全てこのあどけなさの残る少女がひとりで行っていたという意味か。
どうやら、わざと将夜の神経を刺激し、挑発している。
『神崎将夜、昼間のお前はこの程度か』
銀の箸で傷つけられて昏倒する直前、少女が口にした言葉が耳に蘇る。
挑発の目的は将夜の本来の力を引き出し、その程度を確かめることにあるのだろうか。
ふらり――
将夜が桔梗の方へ歩み寄った。
まるで酔っ払いがよろけでもしたような、無造作な動きに見えた。
「……!」
ところが、忍びの腕では頭領の柘植でさえ一目も二目も置くこのくノ一が、思わずぴくりと肩を震わせて、棒立ちになったのである。
「少し付き合ってもらえないか。このまま一人で長屋に帰るのは、少々味気ない心持ちなのでな」
何時 抜いたのか、白刃がぴたりと少女の顎に密着していた。いくら厳しい忍びの訓練を積んでいようと、少女の膚の繊細な薄さに変わりがあるわけではない。刃が少しでも滑れば、たちまち鮮血が噴き出すに違いなかった。
抜き打ちを防ぐには、刀が鞘走 ってからでは間に合わない。相手の手元が閃いたと見えるのは刀身が光を映したということであり、その時は既に斬られている。
抜き打ちがくるという気配を逸早 く察し、刀身の伸びる軌道を先に読んで避けるしかない。あえて挑発してきた桔梗には、将夜の抜き打ちを躱 し得るという自信があった筈である。
それが、身動きすらできなかった。
「こ、これが……秘剣胡蝶斬り……」
忍びの技の一つに、唇を全く動かさずに声を発する方法がある。桔梗はそれを使っている。口を少しでも開けば、顎が切れる。
「いや、胡蝶の羽の一枚のみを斬ったに過ぎぬ。胡蝶斬りは二枚の羽を同時に斬る秘剣。もしおれがもう一枚の羽も斬っておれば、今頃お前はこうして口を利いてはおらぬ」
昼間は見せぬ顔で、にやりと将夜は笑った。
抜き打ちとは、鞘から抜き放たれた刀身が再び鞘に戻って完成する。戻る間も攻撃の一部なのである。将夜の〈胡蝶の羽の一枚のみを斬ったに過ぎぬ〉という言葉は、攻撃をわざと半分で中止したことを示している。
刀が鞘に戻っていれば、桔梗の喉は完全に切り裂かれていた筈だ。
「…………」
「どうした? おれの誘いを受けるか、否 か」
ぽたっ、
何かが刃の上で撥 ねた。
氷のような刃の上に、桔梗の顔が映っている。
ひと筋の汗が少女らしいふっくらした頬を伝い流れ、顎の先で珠となって落ちたのだ。
その音が聞こえる程、二人の間には張り詰めた静けさがあった。
「……わかりました。何処 へなりとお供します」
全く動かぬ桔梗の唇から、観念したような声が漏れた。
小石川養生所の裏門を出たところに、塀の外へ松が枝をさしかけている。
「志乃様とだいぶ御親密なようですね。別れ際にお二人がお話しになっていた様など、まるで男女の
松の樹がしゃべった。
将夜は、黙然と枝の
「ところで、先日は御言葉通り見張りをしませんでした。わたしの頭も撫でて下さいませぬか」
樹の精にしては声が
音もなく、一人の少女が将夜の前に跳び下りる。
「…………」
無言で佇む将夜に桔梗――ここでは千代と呼ばれている――は、不敵にも
前回、自分を襲撃しておきながら、涼しい顔で門の外まで見送ってきた時も驚いたが、今日はまた打って変わって、いかにも公儀隠密然としている。
相手の予想を裏切るというのも、忍びの術の一つなのだろう。
正直、初めて〈だんぴいる〉だと告げられた時の衝撃は尋常ならざるものがあった。この世の全てが敵となり、自分に向かって石を投げつけてくるような気さえした。
己が排斥される存在だという孤独感は、やがて持っていき
ただでさえ、夜の将夜は闘争心が高まる。そこを御庭番なんぞにうろちょろされては、己を抑えられる自信がない。
故に前回、同じくこの門の傍らで、近づくなと警告した。おそらく将夜の全身からは剥き出しの殺気が
確かにあの日は、小石川養生所を出て以後、身辺に監視者の気配は感じなかった。
少女の〈いい子〉という言葉は、その一事を指しているのであろう。
しかもこの言葉は、獣人に襲われた志乃を助けた時、将夜が志乃に対して使ったものだ。
己が監視されていることに将夜が気づいたのは、あの晩からである。
監視者は複数ではなく、全てこのあどけなさの残る少女がひとりで行っていたという意味か。
どうやら、わざと将夜の神経を刺激し、挑発している。
『神崎将夜、昼間のお前はこの程度か』
銀の箸で傷つけられて昏倒する直前、少女が口にした言葉が耳に蘇る。
挑発の目的は将夜の本来の力を引き出し、その程度を確かめることにあるのだろうか。
ふらり――
将夜が桔梗の方へ歩み寄った。
まるで酔っ払いがよろけでもしたような、無造作な動きに見えた。
「……!」
ところが、忍びの腕では頭領の柘植でさえ一目も二目も置くこのくノ一が、思わずぴくりと肩を震わせて、棒立ちになったのである。
「少し付き合ってもらえないか。このまま一人で長屋に帰るのは、少々味気ない心持ちなのでな」
抜き打ちを防ぐには、刀が
抜き打ちがくるという気配を
それが、身動きすらできなかった。
「こ、これが……秘剣胡蝶斬り……」
忍びの技の一つに、唇を全く動かさずに声を発する方法がある。桔梗はそれを使っている。口を少しでも開けば、顎が切れる。
「いや、胡蝶の羽の一枚のみを斬ったに過ぎぬ。胡蝶斬りは二枚の羽を同時に斬る秘剣。もしおれがもう一枚の羽も斬っておれば、今頃お前はこうして口を利いてはおらぬ」
昼間は見せぬ顔で、にやりと将夜は笑った。
抜き打ちとは、鞘から抜き放たれた刀身が再び鞘に戻って完成する。戻る間も攻撃の一部なのである。将夜の〈胡蝶の羽の一枚のみを斬ったに過ぎぬ〉という言葉は、攻撃をわざと半分で中止したことを示している。
刀が鞘に戻っていれば、桔梗の喉は完全に切り裂かれていた筈だ。
「…………」
「どうした? おれの誘いを受けるか、
ぽたっ、
何かが刃の上で
氷のような刃の上に、桔梗の顔が映っている。
ひと筋の汗が少女らしいふっくらした頬を伝い流れ、顎の先で珠となって落ちたのだ。
その音が聞こえる程、二人の間には張り詰めた静けさがあった。
「……わかりました。
全く動かぬ桔梗の唇から、観念したような声が漏れた。