第五十六話 ある男の過去と地の底の鬼のこと
文字数 1,080文字
男は辺りに人影がないか確かめながら、注意深く歩を運んでいた。
灯りはわざと持たない。
月が、異様に明るい。
どこか赤く染まって見える満月である。
風が吹き、周囲に植えられた草を薙ぐ。
身震いしたのは風の冷たさのせいばかりではない。
鬼哭 。
男は耳を澄ます。
風の音だが、鬼が哭いているように聞こえる。
この地面の下には、本当に一匹の鬼がいる。
鬼は己の主人を守っている。
主人である女王が王の子を身篭ってから、ずっと。
故に、既に十八年を閲 している。
その忠義に心を打たれるより、男はその魔力の持続に瞠目し、昂奮する。
魔力とは、げに恐るべきものではないか。
本来、女王とその忠実な僕 である鬼は引き離しておくべきだ。
幕府が試みなかったわけではない。だが、鬼の荒ぶり様のあまりの凄まじさに打つ手がなかったのである。
腕利きの御庭番が、三人殺された。
それも首を引きちぎられたり、腹を引き裂かれたり、見るも無残な有様であった。
『調べてみたい』
男は自ら申し出た。身分は小石川養生所医師。養生所の患者も診るが、本当の仕事は南蛮魔族について臨床的に調べることだった。
何故そんな危険な仕事を選んだのか。
長崎で最新の蘭医学を学び、知識も治療の腕も一流だという自負と、将来への希望に胸を膨らませて江戸に戻った青年医師を待っていたものは、依然として旧弊且つ閉鎖的な医の世界だった。
なんとかツテを頼って、黴の生えたような御典医に斡旋を頼んでみたが、莫大な紹介料を要求された。田沼政治の最大の長所である積極的な人材登用は浸透せず、代わりに悪弊である賄賂ばかりが横行していた。そんな連中がもっともらしい顔をして、「医は仁術なり」などとほざいている。
(どうしようもなく腐っている)
憤慨し、呪った。
(こんなやつらに頭を下げてたまるものか、今に目にもの見せてやる!)
虎穴に入らずんば虎児を得ず、という。危険な仕事であればあるほど見返りも大きい。
最初はあくまで現体制の中で頭角を表わし、出世し、今の地位に胡坐をかいているやつらを蹴落としてやるのが目的だった。
ところが、自信満々で臨んだ狼憑きの調べは、遅々として進まない。
問題は言葉の壁である。狼憑きに関する文献は阿蘭陀語より英吉利語で記されたものが多いにも拘らず、男には阿蘭陀語の知識しかないのが致命的だった。志乃が語学に秀で、綿が水を吸う如く新しい知識を自分のものにしてゆくのを横目に眺める度に、抑えようのない苛立ちが募った。
そんなある日、意外な人物の接触を受けたのである。
見るからにあやしげな一人の浪人だった。
灯りはわざと持たない。
月が、異様に明るい。
どこか赤く染まって見える満月である。
風が吹き、周囲に植えられた草を薙ぐ。
身震いしたのは風の冷たさのせいばかりではない。
男は耳を澄ます。
風の音だが、鬼が哭いているように聞こえる。
この地面の下には、本当に一匹の鬼がいる。
鬼は己の主人を守っている。
主人である女王が王の子を身篭ってから、ずっと。
故に、既に十八年を
その忠義に心を打たれるより、男はその魔力の持続に瞠目し、昂奮する。
魔力とは、げに恐るべきものではないか。
本来、女王とその忠実な
幕府が試みなかったわけではない。だが、鬼の荒ぶり様のあまりの凄まじさに打つ手がなかったのである。
腕利きの御庭番が、三人殺された。
それも首を引きちぎられたり、腹を引き裂かれたり、見るも無残な有様であった。
『調べてみたい』
男は自ら申し出た。身分は小石川養生所医師。養生所の患者も診るが、本当の仕事は南蛮魔族について臨床的に調べることだった。
何故そんな危険な仕事を選んだのか。
長崎で最新の蘭医学を学び、知識も治療の腕も一流だという自負と、将来への希望に胸を膨らませて江戸に戻った青年医師を待っていたものは、依然として旧弊且つ閉鎖的な医の世界だった。
なんとかツテを頼って、黴の生えたような御典医に斡旋を頼んでみたが、莫大な紹介料を要求された。田沼政治の最大の長所である積極的な人材登用は浸透せず、代わりに悪弊である賄賂ばかりが横行していた。そんな連中がもっともらしい顔をして、「医は仁術なり」などとほざいている。
(どうしようもなく腐っている)
憤慨し、呪った。
(こんなやつらに頭を下げてたまるものか、今に目にもの見せてやる!)
虎穴に入らずんば虎児を得ず、という。危険な仕事であればあるほど見返りも大きい。
最初はあくまで現体制の中で頭角を表わし、出世し、今の地位に胡坐をかいているやつらを蹴落としてやるのが目的だった。
ところが、自信満々で臨んだ狼憑きの調べは、遅々として進まない。
問題は言葉の壁である。狼憑きに関する文献は阿蘭陀語より英吉利語で記されたものが多いにも拘らず、男には阿蘭陀語の知識しかないのが致命的だった。志乃が語学に秀で、綿が水を吸う如く新しい知識を自分のものにしてゆくのを横目に眺める度に、抑えようのない苛立ちが募った。
そんなある日、意外な人物の接触を受けたのである。
見るからにあやしげな一人の浪人だった。