第六十二話 世の仕組みに表と裏のあること

文字数 1,551文字

「間に合ったのか」
 将夜と桔梗は小石川養生所の裏口に立った。
「この場で待っていて下さい」
 桔梗がするりと中へ入った。建物の構造には熟知しているのであろう。待つほどもなく出てくると、
「斎木も志乃様もいません。おそらく秘密を知ってしまった志乃様を何処ぞへ連れ去ったのではないかと」
「何処へだ」
「考えられる最も悪しき処。それは――」
 桔梗は一瞬言いよどみ、低い声で言葉を継いだ。「橋本町の、平賀源内の屋敷」
「平賀、源内……だと?」
 将夜の目が訝しげに細められた。将夜は、平賀源内については表面的な知識しか持ち合わせていないのだ。
「詳しい説明は後ほどします。今は――」
「そうだ。今は先にやることがある」
 そのままずかずかと敷地内に踏み入ろうとした将夜の袖を、桔梗が押さえた。
「お待ち下さい。何をするつもりですか」
「最初に入った時、岩盤の形からもしやと思ったが、今日再び見て確信した。ここの地下にあるのは、あの狼憑きのいる牢だけではない。外からは見えないよう巧みに隠されているが、牢の奥にもう一つの部屋がある。その部屋に囚われているのは……」
 将夜に心の奥底まで見透かされる気がして、桔梗はたじろいだ。
「おれの母だ」
「それは……」
退()け!」
 将夜が桔梗の身体を押しのけようとしたが、桔梗は動かなかった。
「駄目です。地下にはわたしの仲間がおります」
「邪魔立てする者は、斬る」
「御庭番を斬れば公儀の敵となります。かりに御母上を救い出せたとして、その後どうなさるおつもりですか。公儀を敵に回して、この六十余州にお二人を()れる場所があるとお思いですか」
「この国がおれと母の敵になると言うなら、それまでだ。ただ、そう易々と殺されてはやらぬ。一人でも多く地獄への道連れにしてやろう」
 数々の修羅場を潜り抜けてきた桔梗でさえ思わずぞっとしたほどの、それは凄絶な笑みだった。夜は闘争本能が高まるという〈だんぴいる〉特有の性質に加え、幕府が母に対して行った非道極まる仕打ちに、将夜の理性の(たが)は弾け飛ぶ寸前になっているのだ。
「いけません!」
 どんな緊迫した状況でも決して感情を表に現わさない筈の忍びが、我を忘れて叫んでいた。
「破れかぶれな行動は、何も生み出しは致しませぬ。十人斬ろうが、二十人斬ろうが、いえ、五十人百人斬ったとて同じことです。そんなことを弥生様が望んでいるとお思いですか。弥生様は、御子息の築いた(しかばね)の山を前にして、よくやったとお褒めになりましょうか!」
「くッ……」
 母がそれを望むのか、と少女の澄んだ眸に問い詰められ、将夜はさすがに足を止めた。まだ完全に自制心を失っているわけではないらしい。
「お願いでございます。お力をお貸し下さい。江戸を騒がせた獣人事件の黒幕は平賀源内です。源内には伝説の狼魔王(ろうまおう)が憑いております。それを倒すことができるのは神崎様、あなたをおいて他にはいないのです」
「力を貸して、その後はどうなる? 母上と同じように、今度はおれを獄につなぐか!」
「いいえ。そのようなことは断じてありませぬ」
「そう言い切れるのか。お前たちこそどうなのだ。秘密を探るために潜入した大名家で正体を看破(かんぱ)され、捕われた時、幕府はお前たちを助けるか。そんな者は知らぬと見捨てられるだけではないのか」
「……その、通りです。形見一つ残りません。しかし、潜入先で死んだ御庭番の家族は上様に目通りを許され、直接悔やみの御言葉を賜り、その後もお上から手厚い保護を受けます。神崎様、この世の仕組みには常に表と裏がございます。いかに冷酷無情に聳え立つ石壁に見えようと、一つひとつの石を運び、築き上げたのはやはり人ではありませぬか。人には、心がございます」
 切々と、桔梗は語った。
 深い湖水のように真情溢れる眸が、ひたと将夜に据えられていた。
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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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