第五十三話 板一枚下に攻防があること

文字数 2,379文字

「将夜様、どういうことですか! 全然おいでにならないから、もしや御病気かと心配してたんですよ。それを何ですか、こんな時刻に娘さんを連れまわしたりなんかして――」
 桔梗もさすがに目を瞠っている。
 連れてこられたのが場末の騒々しい店で、しかも、暖簾をくぐる前に、中から飛び出してきた娘に、将夜がいきなり叱られている。
「悪かった。この通りだから、とにかく中へ入れてくれないか」
 かなりみっともなく将夜はあやまり、ようよう店に入れてもらえた。
 一日の仕事を終えた男たちの汗の匂いに混じって、独特の脂の香が漂っている。
 鼻をうごめかした将夜が、
「みよ坊、九寸五分を一つもらおう。それから銚子を二本……」
 と笑顔で言いかけたが、
「お酒は駄目です。こんな娘さんにお酒を飲まして、どうするつもりなんですか!」
 また怒られ、「じゃあ酒は抜きだ」と首を(すく)めて、こそこそと隅の席に座る。
 おみよから注文を伝えられた平次は、ちらっと将夜の方を見遣って、それから小さく頷く。
 くノ一の気配を消している桔梗は、あどけなさの残る小娘にしか見えない。こんな店に入ってくるのも奇妙なら、侍と一緒にいることも不釣り合いだ。周りの客から、ちらちらと好奇の視線が二人に向けられる。
 だが、それも長くは続かず、すぐに潮騒のような元の喧騒に戻った。平次がさりげなく目を光らせているため、この店では客が別の客にしつこくちょっかいを出したり、露骨に絡んだりすることはないのだ。
「どういうことです? あの娘さんと別れるために、わたしに神崎様の女のふりをしろとでも言うのですか。そういうお話はちょっと……」
「そんなわけないだろ!」
 向こうで客たちの注文をさばいていたおみよが、こちらに鋭い視線を飛ばしてきたので、将夜は慌てて声を潜める。
「実は、折り入って訊きたいことがある」
「こんな(ところ)で?」
 桔梗は眉を寄せたが、すぐに、「ああ」と納得したような顔をした。
 密談に相応しい場所として一番に考えられるのは、四囲から完全に隔離された密室だろう。だが、現実にはそういう場所は滅多に存在しない。俗に〈壁に耳あり障子に目あり〉と言うが、秘密めかせばめかすほど、かえって人目についてしまうものなのだ。
 そこで、逆転の発想である。
 人が多く、騒々しい場所。周りの騒音が、かえって一種の真空状態を作り出しているような処。こんな店で、御庭番のくノ一と魔族の血を引く男が密談を交わしているとは誰も思うまい。
「何をお訊きになりたいのですか」
「お前は最前、おれが志乃殿に言った言葉を口にした。志乃殿が獣人に襲われた晩の話だ」
「左様でございますか。わたしにはとんと覚えが――」
「今更とぼけるな」
「頭を撫でる云々でございますか」
「笑うな」
「笑ってなどおりませぬ」
「あの晩、お前はあの場に居合わせた。そうだな?」 
「獣人があの附近に出現する可能性が高いという情報を、わたしたちは掴んでいたのです。襲われたのが志乃殿だったことも、神崎様が現れたのも偶然です。神崎様が獣人を斃したことに吃驚(きっきょう)し、頭領に報告したところ、あなた様を監視するよう命じられたのです」
「最初はおれもそう思った。獣人を斬った現場を目撃されたために、御庭番に目を付けられる結果に相成ったのだ、とな。しかし、それではどうも腑に落ちない」
 桔梗は小首を傾げる。
「狼憑きを斬った翌朝、おれは釈明の機会も与えられぬまま兄に義絶された。通常なら組頭まで話が上がるのは、はやくても翌日登城後になる筈だ。登城前とはいくらなんでも性急すぎる。夜の間に沙汰が下っていたとしか考えられぬ」
「…………」
「そんなことができるのは誰だ? 上様直属の公儀隠密をおいて他にはあるまい。つまり、こういうことだ。お前たちはおれのことをとっくに知っており、以前から動向を監視していた。――違うか」
 桔梗は暫く黙って将夜の顔を見つめていたが、やがて、ふっと笑った。
(らち)もないお話でございます」
「そうかな」
「証拠がございますか」
「袱紗に細工をしたのは、お前たち――いや、お前だろう」
「……!」
 飯台の下で、将夜が桔梗の手を抑えた。桔梗の指はとっさに小魚のようにくねって逃れようとする。将夜の指がそれを追って更に絡みつく。
 台の下で激しい応酬が繰り広げられているにも拘らず、台の上の両者の顔はあくまで平静で、眉毛一本動かない。
 この時、おみよが近づいてきて、
「お待ちどうさま」
 どん、と二人の前に皿を置いた。
 皿から頭と尾をはみ出させ、脂をじゅうじゅう言わせている

――つまり、秋刀魚である。
 おみよは将夜に剃刀(かみそり)のような視線を投げた後、桔梗の方へにっこりと笑いかけた。
「もしこのお侍さんに変なことされたら、すぐあたしに言うのよ」
「おい、変なことってなんだ?」
「ありがとう。そうします」
 桔梗もあどけない笑顔を見せる。あくまでおみよに対して、だ。
「そうするとは、どういう意味だ。ますます誤解を生むではないか」
 ぶつぶつ言う将夜をきれいに黙殺して、おみよは去ってゆく。
「どうも気が短いな。おれはまだ何も言っていないぜ」
 これは桔梗に言っている。
「何を仰っているのかわかりません。いきなり手なぞ握られたので、それこそ

でもされるのかと肝を冷やしました。いっそ悲鳴を上げればよかったでしょうか」
「とぼけるな。手裏剣を取り出しかけたのは誰だ。この兎の皮を被った狸め」
「た、狸……?」
 桔梗の眸に一瞬、(いか)りの色が浮かんだ。
 忍びが感情を面に浮かべるなど、明らかに失態である。ましてどんな窮地にあっても氷の無表情を崩さぬことで知られる桔梗にしては、殆ど屈辱的なまでの失態と言わねばならない。
 桔梗はようやく自由になった手で口を押さえると、ひとつ小さな空咳をした。
 百戦錬磨のくノ一も、将夜が相手だと何故か調子が狂うらしい。
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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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