第四十九話 冬薔薇という名の花はないこと
文字数 2,882文字
「こうして座っていると、浮世の喧騒から遠く離れた心持ちになる」
「わたしも、手が空くとよく一人でここに来ます。心がすっと落ち着くような気がして」
「あそこにあるのは、井戸かな」
「あれは涸 れ井戸です。今は蓋をして、子供などが誤って落ちたりしないようにしてあります」
「あの井戸の近くに、花が咲いている。もう冬だというのに」
「冬薔薇」
「フユソウビ?」
「冬薔薇とは、正確にはあの花の名ではありません。薔薇は本来夏の花ですが、冬まで咲き残っているものも稀にあって、それを特に冬薔薇と呼ぶのです。薔薇にはいろいろ種類がありますが、あれは庚申 薔薇 です。漢方薬の材料で、女の月のものの痛みなどに効果があります」
小石川薬園内の四阿 である。
初めて薬膳所の部屋から薬園を眺めた時は、毒々しいとさえ思ったものだが、こうして四阿の中から見ると全く違った印象だ。この辺りの薬草は志乃が手がけていると聞いて、なるほどと将夜は思った。仕事の跡には、それを為した人の内面が自然と滲み出るものである。
「志乃殿は何でも知っておられる。大したものだ」
感に堪 えたように将夜が言うと、
「何でも知っているなどと……。お揶揄 いになっては困ります」
「いや、志乃殿と話していると、いつも大変勉強になる。見た目は南蛮の花のようだが、なんと漢方の薬剤としても使われるとは。――それにしても、不思議でござるな」
「え」
僅かに頬を染め、差し俯いていた志乃が思わず将夜の横顔を見守る。
「高価な蘭などを目にしても、別段良いとも思わんのだが、ここにこうして薬用の花を眺めていると、かえってしみじみ美しいと思う」
「ここにある草や花は、見られようとしておらぬ故かもしれません。花は美しいものですが、これみよがしに絢爛 と咲き誇られては、見ている方も疲れてしまうのではないでしょうか」
「なるほど、志乃殿らしい言葉だ」
「わたくしらしいとは、どのような意味でございますか」
「そう正面切って訊かれても困る。なんとなくそう思ったまでだ」
将夜は空咳を一つすると、四阿の屋根越しに薄曇りの空を透かし見た。
少し前まで、こんな日でも外へ出れば、熱いさら湯に入った時のような痛みを膚に覚えたものだ。
「唐柿汁のおかげで、最近身体の調子が頓 に落ち着いてまいった。天候の変化が体調に与える影響も緩和されてきたようだ。志乃殿には、真 に御礼の言葉もござらぬ」
志乃に対する感謝の気持ちに嘘偽りは微塵もないのだが、早口で言った将夜の様子はどこか慌てて話題を変えたように見えなくもなかった。
志乃はちょっと含み笑いを洩らして、ちらと将夜に目を遣ったが、〈志乃殿らしい〉の意味はそれ以上追求しないことにしたらしく、
「先程診させていただきましたが、脈も安定しております」
真面目な医師の顔に戻って、言った。
「体質の問題が少し改善された今なら、たとえ銀製の物に触れても、この間ほど激烈な反応は示さぬのではなかろうか」
「そのことにつきましては、日の光に対する反応と同じように考えられるのではないでしょうか。〈ばんぱいあ〉ほど致命的でないとは言え、やはり弱点であることに変わりはない、と――。症状を軽くすることはできても、本質そのものは変わっていないからです」
「やっかいだな。いつ暴発するかわからぬ火縄銃でも腹中に呑んでいる気分だ」
「暴発ですか……」
将夜が何気なく口にした言葉に、志乃は真剣な顔で考え込んだ。
「あるいはそれに近いこと、なのかもしれません」
「暴発に、近い?」
「はい。神崎様が最初に体調の変化を覚えられたのは、師である重蔵様と最後に立ち会いをなさってからで、以後徐々に症状が悪化したというお話でしたね」
「いかにも。唐柿汁を飲んでいなければ、とてもこんな時刻に外にはおられまい」
唐柿は外に植えておいた場合、冬には枯れてしまうが、この薬園内の一廓に囲いを設け、更に風呂の使用済みの湯がその周りを巡回する装置を考案したことにより、季節を問わず一年中実が生 るようになったのだそうだ。
唐柿は、将夜の場合のような特殊な効能だけでなく、基本的に滋養豊かな食材なので、患者の献立 に積極的に利用されているらしい。
「神崎様の体調の悪化と若い娘に対する吸血衝動の間には関わりがあるのではないか、とわたくしは考えております。これまでを思い出していただきたいのですが、ある限界を超えて体調が悪化してしまった時に限って、吸血衝動が生じていたのではありませぬか?」
将夜は眉を上げた。
「言われてみれば、確かにその通りだ。若い娘の傍 に寄ると、血の香が匂い立つように感じたのはごく最近の話で、それ以前にはなかった」
「前にも申し上げた通り、〈ばんぱいあ〉の食物は乙女の血です。神崎様は御母上の血を濃く受け継いでおられます故、血を吸わなくとも直ちに大事にいたることはあるまいと存じますが、夜の間に発揮される強大な力を維持するには、やはり通常の食物では栄養的に限界があるのだと考えられます」
「しかし、唐柿汁が……」
「唐柿に効果があると申しても、所詮は代替品にすぎませぬ。体内において、ある特定の滋養が不足した場合、人の身体はその滋養を含んだ食物を無性 に欲します。神崎様の場合も、あるいは――」
「身体が、血を欲すると申されるか」
「はい。大変申し上げにくいのですが、可能性としては充分にあり得るかと」
「うむ」
思わず目を閉じた将夜の口から、苦悶に似た響きが洩れた。
夜の五感の冴えが尋常ならざるものであればある程、そのために消費される力も莫大なものになる道理だ。その不足分を補うのに乙女の血をもってしなければならぬとするなら、一時期将夜を連続して襲った嵐の如き渇望も、ある意味至極当然の生理現象に過ぎなかったのかもしれぬ。
唐柿汁は代替品に過ぎぬと志乃は言う。だとすれば、いつかそれだけでは誤魔化し切れなくなる日がくるのだろうか。おぞましくも乙女の膚を歯で食い破り、溢れ出る血潮を貪るような……。
「神崎様」
己の心の闇に沈みかけていた将夜は、凛然とした声に引き上げられるように、はっと我に返った。
「わたくしがお側に付いております。必ずや良い治療法を見つけます故、それまではどうかわたくしを信じて辛い日々に耐えて下さりませ」
「…………」
「待って、いただけましょうか」
ひたと己の顔に据えられている双の眸が微かに震え、やがて切なげな潤みを帯び始める。
一瞬息を呑んだような顔をした将夜だったが、すぐに表情を緩め、穏やかな声でこう言った。
「とっくに信じ切っておるのだ。それがしに付いてくれているのは、江戸一の名医だと――」
潤みが膨らみ、雫 となって流れ落ちる寸前だった志乃の顔が、瞬時に明るさを取り戻す。
「ありがとうございます。志乃は、嬉しゅうございます」
将夜は照れたように横鬢を掻く。
「志乃殿に礼を言われてはこちらの立つ瀬がないな」
居住 まいを正すと、将夜は改めて深々と頭を下げた。
「志乃殿に巡り会うことができたのは奇蹟のような幸運だと思っておる。この御恩、神崎将夜、生涯忘れるものではござらぬ――」
「わたしも、手が空くとよく一人でここに来ます。心がすっと落ち着くような気がして」
「あそこにあるのは、井戸かな」
「あれは
「あの井戸の近くに、花が咲いている。もう冬だというのに」
「冬薔薇」
「フユソウビ?」
「冬薔薇とは、正確にはあの花の名ではありません。薔薇は本来夏の花ですが、冬まで咲き残っているものも稀にあって、それを特に冬薔薇と呼ぶのです。薔薇にはいろいろ種類がありますが、あれは
小石川薬園内の
初めて薬膳所の部屋から薬園を眺めた時は、毒々しいとさえ思ったものだが、こうして四阿の中から見ると全く違った印象だ。この辺りの薬草は志乃が手がけていると聞いて、なるほどと将夜は思った。仕事の跡には、それを為した人の内面が自然と滲み出るものである。
「志乃殿は何でも知っておられる。大したものだ」
感に
「何でも知っているなどと……。お
「いや、志乃殿と話していると、いつも大変勉強になる。見た目は南蛮の花のようだが、なんと漢方の薬剤としても使われるとは。――それにしても、不思議でござるな」
「え」
僅かに頬を染め、差し俯いていた志乃が思わず将夜の横顔を見守る。
「高価な蘭などを目にしても、別段良いとも思わんのだが、ここにこうして薬用の花を眺めていると、かえってしみじみ美しいと思う」
「ここにある草や花は、見られようとしておらぬ故かもしれません。花は美しいものですが、これみよがしに
「なるほど、志乃殿らしい言葉だ」
「わたくしらしいとは、どのような意味でございますか」
「そう正面切って訊かれても困る。なんとなくそう思ったまでだ」
将夜は空咳を一つすると、四阿の屋根越しに薄曇りの空を透かし見た。
少し前まで、こんな日でも外へ出れば、熱いさら湯に入った時のような痛みを膚に覚えたものだ。
「唐柿汁のおかげで、最近身体の調子が
志乃に対する感謝の気持ちに嘘偽りは微塵もないのだが、早口で言った将夜の様子はどこか慌てて話題を変えたように見えなくもなかった。
志乃はちょっと含み笑いを洩らして、ちらと将夜に目を遣ったが、〈志乃殿らしい〉の意味はそれ以上追求しないことにしたらしく、
「先程診させていただきましたが、脈も安定しております」
真面目な医師の顔に戻って、言った。
「体質の問題が少し改善された今なら、たとえ銀製の物に触れても、この間ほど激烈な反応は示さぬのではなかろうか」
「そのことにつきましては、日の光に対する反応と同じように考えられるのではないでしょうか。〈ばんぱいあ〉ほど致命的でないとは言え、やはり弱点であることに変わりはない、と――。症状を軽くすることはできても、本質そのものは変わっていないからです」
「やっかいだな。いつ暴発するかわからぬ火縄銃でも腹中に呑んでいる気分だ」
「暴発ですか……」
将夜が何気なく口にした言葉に、志乃は真剣な顔で考え込んだ。
「あるいはそれに近いこと、なのかもしれません」
「暴発に、近い?」
「はい。神崎様が最初に体調の変化を覚えられたのは、師である重蔵様と最後に立ち会いをなさってからで、以後徐々に症状が悪化したというお話でしたね」
「いかにも。唐柿汁を飲んでいなければ、とてもこんな時刻に外にはおられまい」
唐柿は外に植えておいた場合、冬には枯れてしまうが、この薬園内の一廓に囲いを設け、更に風呂の使用済みの湯がその周りを巡回する装置を考案したことにより、季節を問わず一年中実が
唐柿は、将夜の場合のような特殊な効能だけでなく、基本的に滋養豊かな食材なので、患者の
「神崎様の体調の悪化と若い娘に対する吸血衝動の間には関わりがあるのではないか、とわたくしは考えております。これまでを思い出していただきたいのですが、ある限界を超えて体調が悪化してしまった時に限って、吸血衝動が生じていたのではありませぬか?」
将夜は眉を上げた。
「言われてみれば、確かにその通りだ。若い娘の
「前にも申し上げた通り、〈ばんぱいあ〉の食物は乙女の血です。神崎様は御母上の血を濃く受け継いでおられます故、血を吸わなくとも直ちに大事にいたることはあるまいと存じますが、夜の間に発揮される強大な力を維持するには、やはり通常の食物では栄養的に限界があるのだと考えられます」
「しかし、唐柿汁が……」
「唐柿に効果があると申しても、所詮は代替品にすぎませぬ。体内において、ある特定の滋養が不足した場合、人の身体はその滋養を含んだ食物を
「身体が、血を欲すると申されるか」
「はい。大変申し上げにくいのですが、可能性としては充分にあり得るかと」
「うむ」
思わず目を閉じた将夜の口から、苦悶に似た響きが洩れた。
夜の五感の冴えが尋常ならざるものであればある程、そのために消費される力も莫大なものになる道理だ。その不足分を補うのに乙女の血をもってしなければならぬとするなら、一時期将夜を連続して襲った嵐の如き渇望も、ある意味至極当然の生理現象に過ぎなかったのかもしれぬ。
唐柿汁は代替品に過ぎぬと志乃は言う。だとすれば、いつかそれだけでは誤魔化し切れなくなる日がくるのだろうか。おぞましくも乙女の膚を歯で食い破り、溢れ出る血潮を貪るような……。
「神崎様」
己の心の闇に沈みかけていた将夜は、凛然とした声に引き上げられるように、はっと我に返った。
「わたくしがお側に付いております。必ずや良い治療法を見つけます故、それまではどうかわたくしを信じて辛い日々に耐えて下さりませ」
「…………」
「待って、いただけましょうか」
ひたと己の顔に据えられている双の眸が微かに震え、やがて切なげな潤みを帯び始める。
一瞬息を呑んだような顔をした将夜だったが、すぐに表情を緩め、穏やかな声でこう言った。
「とっくに信じ切っておるのだ。それがしに付いてくれているのは、江戸一の名医だと――」
潤みが膨らみ、
「ありがとうございます。志乃は、嬉しゅうございます」
将夜は照れたように横鬢を掻く。
「志乃殿に礼を言われてはこちらの立つ瀬がないな」
「志乃殿に巡り会うことができたのは奇蹟のような幸運だと思っておる。この御恩、神崎将夜、生涯忘れるものではござらぬ――」