第五十四話 桔梗は秋刀魚を食さぬこと

文字数 840文字

「まあ、先に喰おうではないか」
 秋刀魚のことである。
「わたしは結構です。この匂いがちょっと……」
 江戸において秋刀魚を好んで食すのは、肉体労働の男たちが多い。ちょっと気の利いた飯屋では(きす)やコハダが主流で、秋刀魚はむしろ敬遠された。
「苦手か」
「いえ、別に苦手というわけではないのですが、これを食べると口に匂いが残りますから」
「なるほど。そういうことか」
 気配を絶とうとする時、妨げになり易いのは、実は音よりもむしろ匂いである。故に、忍びたちは、己の身体の匂いに極めて敏感なのだろう。
 そう簡単に解釈して納得した将夜は、桔梗の頬に一瞬、刷毛でひと刷けした如き朱が走ったことに気づかなかった。
「以前はおれも苦手だったのだが、今日この脂の匂いを嗅いだ途端、何故か無性に喰ってみたくなったのだ」 
「店の(あるじ)が妙な顔をしたのは、そういう理由(わけ)だったのですね。いつもは食さぬものを頼んだから」
「妙な顔をしてたのか? 気づかなかった。目敏いな、さすがに。まあ、ここの親仁(おやじ)は年がら年中、ああいう景気の悪い(つら)をぶら下げておるのだが」
 言いながら、将夜は秋刀魚の腹綿(はらわた)の部分に箸をつける。
「秋刀魚の腹綿も、唐柿と同じような効果があるのですか」
「わからぬが、急に食いたくなったのは、そういうことかもしれん。――にしても、何でもお見通しだな、お前は」
 将夜は低く、笑った。四阿での志乃との会話は、やはり逐一聞かれていたらしい。
「どうしてわかったのか、答えていただけますか」
 桔梗の声が、不意に鋭く尖った。
「む……」
「袱紗のことです」
「書き変えたのだろう、お前が。母の秘密の書付(かきつけ)を」
「しかし、あれは――」
「確かに見事な細工だった。おれも最初は気づかなかった」
 袱紗の裏に縫いこんであった母の書付は非常に小さかった。そこに書いてあったのは、

  忌むべき物
  日のひかり
  銀細工
  小石川養 斎 可尋(たずぬべし)

 のみであった。
 将夜は、じっと桔梗の目を見据えながら言った。
「あの〈可尋〉の二文字は、後から書き足されたものだ」
 
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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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