第五十五話 母はわが子のみに宛てて文字を残すこと

文字数 2,943文字

 ゆっくり呼吸五つほどの沈黙の後、桔梗の唇から観念した如き溜め息が洩れた。
「そうです。細工をしたのはわたしです。教えて下さい、一体どうやって見抜いたのかを」
「実は簡単なことだった」
「簡単?」
「あの紙は()い匂いがしただろう」
「はい。匂い袋などでは嗅いだことのない香りでした。南蛮渡りの香料か何かでしょうか」
「うむ。南蛮渡りの香水というもので、〈夜光虫〉という名なのだそうだ」
「やこうちゅう……」
「何故そう呼ばれると思う? 光るのさ、文字通りにな。ただ、日の光や灯りの下では見えない。闇の中でのみ光る」
「ま、まさか……そのようなものがあるとは……」
 桔梗の顔にもさすがに驚愕の色が揺れた。
「母上は自ら記された文字の一つひとつに、あの香水を染み込ませておられた。だが、〈可尋〉の二文字だけは光らなかったよ」
「……!」
 桔梗をうかつだと責めることはできまい。あの書付は、弥生が息子の将夜だけに宛てて、一字一字香水を染み込ませて記した文字だったのだ。
「公儀隠密は、場合によっては一つの仕事に何十年もの歳月をかけることもあるそうだな。狼憑きの一人が小石川養生所の地下に囚われているのを見て、おれは確信した。全ては、母上から始まっていると――」

 自分と母が寝起きしていた場所は座敷牢だった、と将夜は自嘲気味な笑みを浮かべて桔梗に告げた。
「婚儀もせずに子を宿し、生んでしまった娘を、外聞の悪さから座敷牢に押し込めたのだと思っていたが、囚われの狼憑きを見て、考えが変わった。幕府はかなり以前から、南蛮魔族が密かに長崎より江戸に潜入している事実を掴んでいたに相違あるまい」
「…………」
「母上が魔族の子を生んだという事実も幕府に知られていた。故に母の身は拘束され、二六時中監視下に置かれることとなった。そして、その子――つまり、おれが五つになった年に、幕命により母子(おやこ)は分かたれ、子は神崎の家に引き取られた。
 桔梗の表情からは何も読み取れない。将夜はかまわず続けた。
「まったく気の長い話だ。爾来十三年という歳月が流れた。そしてついに獣人が江戸で暴れ出し、お前たちは動き始めた。神崎の家に忍び込み、母の袱紗に細工をした。目的はおれが確実に斎木を(おとの)うようにするためだろう。確かにおれは、〈小石川養〉の後に〈斎〉の字が続くのを見た時、姓名の一部だと直感した。
 もし姓名なら、頭文字だと考えるのが道理。そこで志乃殿が同心に告げた〈生方木斎〉という名を思い出したのだ。八丁堀の笹尾の調べに拠れば偽名だった由だが、逆さにすればどうだ? 果たして養生所には、〈斎木方生〉という名の医師がいた。実はおれは当初、志乃殿の方を御庭番かと疑っていたのだ」
 桔梗は既に表情を消している。その眸を凝視しながら、将夜は続けた。
「おれを斎木のもとに行かせ、己が何者であるかを知らしめる。それが仕組まれた筋書きだ。人と魔族の間に生まれた〈だんぴいる〉。囚われの狼憑きを見せたのは、一種の脅しだ。もし幕府に合力(ごうりき)しなければ、おれも同じように檻の中に閉じ込めるという意味だ。
 そして今宵、お前は再びおれの前に現れた。下働きの千代としてではなく、公儀隠密として。――さあ、単刀直入に答えてもらおう。おれが言ったことは当たっているか否か」
「答えないと言ったら?」
「一切の合力を断る。無論、おとなしく檻に閉じ込められるのも御免(こうむ)る。おれを(ほふ)るには、御庭番からも相当の犠牲が出ると覚悟した方がいい」
 涼しい目で将夜は言った。淡々とした声音だが、問答無用の峻烈さが滲み出る。
 桔梗は差し俯いた。長い睫が微かに震える。
 ややあって、「答えるしかないようですね」と呟いた。
「神崎様の御推察は、わたしの知る事実と大筋で一致していますが、いくつか異なる部分があるようです。当時のことは、わたしも直接には存じませんが、あなた様が神崎家に引き取られたのは、幕命というより神崎様の母君――弥生様の言葉によるものだったとか」
「母の、言葉?」
「弥生様ご自身が、子の父は隣家の与一郎殿だと申されたのです」
「そ、それは真か!」
「御庭番の調べでは、あなた様の父は魔族の一人である筈でした。しかし、弥生様はそれを否定し、与一郎殿の名を出したのです。
 長崎奉行の配下であった弥生様の御実家と神崎家の敷地は隣り合っておりました。何らかの交情があった可能性がないとは言い切れませんが、与一郎殿は謹厳実直のお人柄、しかも既に妻帯し、二人の子があった。あり得ぬと誰もが思ったそうです。弥生様は偽りを申されておるに違いない、と。――ところが、驚くべきことに与一郎殿までが、あなた様を自分の私生児であると認めたのです」
「父は、認めたのか。しかし……」
「そうです。今なら与一郎殿が偽りの証言をしていたことは明らかですが、当時はどちらが真実かわからなかった。幼少時のあなた様に魔族の徴候が見られなかったことも、事態を一層複雑にした要因でした。五つまで様子を見た後、幕府はとりあえずあなた様に危険はないと判断を下し、神崎家に引き取らせたのです」
「何故、偽りの証言などを……」
 おかげで多貴との夫婦関係は冷え切り、二度と修復されなかった。与一郎が身罷(みまか)った時でさえ、多貴は涙一粒こぼしはしなかったのだ。
「わかりません。わからないと言えばもう一つ、士道館であなた様に剣術を学ばせることを決めたのも与一郎殿なのです。幕府は何も命じてはいません。
 もちろん緩やかながら監視は続いており、あなた様の行状は定期的に御庭番がまとめ、上様に報告しておりました。ただ、それも次第に形式的になり、もはやこれ以上の監視は不必要かと思われた矢先、突如あなた様の身体に変化が起きたのです。もしあなた様の身体の変化がもう少し遅かったら、あるいは幕府は知らずに手を引いていたやもしれませぬ」
 低い唸り声が、将夜の口から洩れた。無意識に秋刀魚の腹綿を口に放り込む。拡がる苦味に思わず酒を探したが、ないことに気づき、茶で流し込んだ。茶も、渋い。
「あなた様の身体に魔族のものと思われる徴候が現れ始め、監視は取りやめどころか強化されることになりました。わたしが見張り役に選ばれたのもその時期です」
「なるほど、そなたに片想いされていた期間は、おれが思っていたより長かったというわけか」
「それにしても」
 桔梗は将夜の軽口を黙殺して、続けた。「神崎様の母君(ははぎみ)は恐ろしい方です。わたしたちはみな、弥生様の掌の上で踊らされていたようなものです」
「もし母の判断が正しいと思うなら、斎木の動向には気をつけた方がよいぞ」
「え」
「お前たちは母の書付の言葉が足りず、おれが意味を判じかねることを恐れた。そして、念には念を入れるつもりで二文字付け加えたのだ。ところが、お前たちが余計なことをしたせいで、母が本来記そうとしていた内容とは、(いささ)か意味の異なるものになってしまったのだ。細工に気づいたのは、その不自然さのせいもある」
「不自然さ――と申されますと?」
 桔梗の顔に僅かに動揺が走った。
「あの〈小石川養 斎〉という文字は、〈日のひかり〉〈銀細工〉という文字と並べて書かれていた。どちらもおれが忌み、避けねばならぬものだ。ならば斎木もまた然り――ということにならぬか」

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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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