第十話 定町廻りは首筋を十手で叩きがちなこと
文字数 2,207文字
「なるほど、乱心でござるか。確かにこのような恰好 で市中を徘徊するとは常軌を逸した所業」
同心は男の屍体を改めながら言った。小柄で猫背の、あまり風采の上がらぬ中年男だ。
「それにしても水際 立ったお腕前でございますなァ。ただの一刀で急所を過 たず――」
頚動脈を断ち切ったせいで、傷口から多量の血が噴き出していた。同心の提灯の動きに合わせ、朱に染まった板塀と、その下の血溜りが照らし出される。
俗に〈八丁堀の旦那〉と呼ばれる同心は、身分的には御家人 である。いくら部屋住みの次男坊でも、旗本に対しては一応丁寧な態度を採っておいた方がいいと考えているのか、将夜の剣術の腕を讃えるような口吻 であった。
隣に立つ、いかにも楚々 とした若い女が、全裸の男に襲われた恐怖を縷々 述べ立てたのも、少なからぬ効果があったようだ。
同心はすっかり女に同情しているらしく、いかにも気 遣 わしげな声 音 で、
「申し訳ござらぬが、役目柄 最後にもう一度確認させていただきたい。この男の身元に心当たりはないのですな」
「ございません。全く見覚えのない顔です」
女は躊躇 いなくそう答える。
「人は死ぬと相が変わるものでして……。しかも、この暗さ。如何 でござろう、もう一度よく確かめていただけませぬかな」
同心は死体の傍らにしゃがみ、提灯を男の顔に近づける。歯を剥き出した顔には生々しい血がべったりと付着している。
「…………」
女はとっさに手で胸を押さえ、顔を逸らす。
「もうそのくらいでよろしかろう」
吐き気を堪 えているに違いない女の様子を見かねて将夜が口を挟むと、同心は頷いて立ち上がり、
「これは御無礼仕った。もう結構でござる」
十手 で自分の首筋をぴしゃぴしゃ叩きながら、将夜にとも女にともつかず一揖 した。
――小半刻(約一時間)後。
将夜は牛込にある屋敷に戻る道を、一人歩いていた。
その足がふと止まる。
「見送り大儀、だな」
そろりと言った。
周囲に人の気配はない。
影が動いたわけでも、音がしたわけでもなかった。
ただ、頭上の瓦屋根に纏 わる夜気の一部が僅かに凝 るのを、将夜の研ぎ澄まされた神経は感得している。
「あの化け物の仲間か」
「…………」
「何故おれの跡をつける?」
応 えは、ない。
月が雲間に隠れた。
水のように柔らかく辺りに瀰漫していた白い光が、ふっと翳る。
将夜は左手を静かに鞘に這わせた。右手はまだ柄に掛かっていないが、左手の親指は既に鍔の後ろに密着し、いつでも鯉口 を切れるようにしてある。気楽そうな声とは裏腹に、将夜の身体はとっくに臨戦態勢を採っていた。
昼は何をする気力もないのが嘘のように、夜は五感が冴え返り、四肢にも力が漲る。
それだけではない。
激しい渇きを覚えるのだ。
その渇きが争いを、敵を――その敵を完膚 なきまでに倒すことを求めている。
今この時も、闇の中から自分を窺っている者の正体を知りたいというよりは、相手が白刃を振りかざして襲い掛かってくるのを心待ちにしている己 がいる。
火花の散る命の遣り取りの予感に、武者震 いするほど昂揚する。
まるで己の中に、〈飢えた獣〉を一匹飼っているかのように。
この闘争への希求が、若い娘の白い柔肌に歯を立て、その血を吸いたいという異様な衝動とは別ものなのか、あるいは同じものの表と裏に過ぎぬのか。当の本人にも全く見当がつかない。
『おぬしに欠けているのは、勝負に対する貪欲さだ。なりふり構わず相手を倒そうという気迫が足りぬ』
亡き師に、かつてそう戒められた。
今の自分を見たら、師は何と言うであろうか。
先程もそうだ。
見るからに恐ろしげな人外の存在に遭遇したというのに、ただ相手を打ち倒すということしか意識になく、怯える心は殆ど皆無と言ってよかった。
(何かが、おれという人間を内側から喰らっている。おれの脆 くて弱い部分を……)
元々己のうちに棲んでいたのか、あるいは外から入り込んだのか。
とにかく、その
(そやつが、いつかおれという存在を喰らい尽くしてしまうのではないか)
その予感には当然、不安と焦慮が伴う。だが同時に、思い切り声を上げて笑いたいような痛快さもどこかで感じているのだ。
絶対の強さに対する激しい憧憬 。
それは武士の――いや、男という生き物のやっかいな本質なのかもしれなかった。
月が、顕 われた。
将夜の左手の親指が、すっと鍔から離れた。
いつの間にか、瓦屋根の上にあった気配が消えている。
暴走寸前だった内なる〈獣〉の力が次第に弱まってゆき、それと入れ替わるように少しずつ、本来の自分が戻ってくる。
息を、ゆっくりと吐き出す。
見上げる空に、禍々 しい気を孕 んだ満月がある。
血色の月。
しかし、その光を浴びた将夜の顔はあくまで白かった。
生気がないという意味ではない。肌の色素そのものが持つ白さのようであった。月光を吸い込むのではなく、逆に照り返すような艶 やかさである。
懐手 をして、将夜は徐 に歩き出す。
影法師 が地に伸びていた。この国の男には珍しく、すらりと長い足を持つ影である。
「む……」
不意に足を止めた。何かを忘れているような気がしたのだ。
二三歩行って、また立ち止まる。
道の上に伸びた影法師も、一緒に首を捻 る。
やがて、ぽんと一つ手を叩いた。
「しまった! 宗助のことをすっかり失念しておった」
同心は男の屍体を改めながら言った。小柄で猫背の、あまり風采の上がらぬ中年男だ。
「それにしても
頚動脈を断ち切ったせいで、傷口から多量の血が噴き出していた。同心の提灯の動きに合わせ、朱に染まった板塀と、その下の血溜りが照らし出される。
俗に〈八丁堀の旦那〉と呼ばれる同心は、身分的には
隣に立つ、いかにも
同心はすっかり女に同情しているらしく、いかにも
「申し訳ござらぬが、
「ございません。全く見覚えのない顔です」
女は
「人は死ぬと相が変わるものでして……。しかも、この暗さ。
同心は死体の傍らにしゃがみ、提灯を男の顔に近づける。歯を剥き出した顔には生々しい血がべったりと付着している。
「…………」
女はとっさに手で胸を押さえ、顔を逸らす。
「もうそのくらいでよろしかろう」
吐き気を
「これは御無礼仕った。もう結構でござる」
――小半刻(約一時間)後。
将夜は牛込にある屋敷に戻る道を、一人歩いていた。
その足がふと止まる。
「見送り大儀、だな」
そろりと言った。
周囲に人の気配はない。
影が動いたわけでも、音がしたわけでもなかった。
ただ、頭上の瓦屋根に
「あの化け物の仲間か」
「…………」
「何故おれの跡をつける?」
月が雲間に隠れた。
水のように柔らかく辺りに瀰漫していた白い光が、ふっと翳る。
将夜は左手を静かに鞘に這わせた。右手はまだ柄に掛かっていないが、左手の親指は既に鍔の後ろに密着し、いつでも
昼は何をする気力もないのが嘘のように、夜は五感が冴え返り、四肢にも力が漲る。
それだけではない。
激しい渇きを覚えるのだ。
その渇きが争いを、敵を――その敵を
今この時も、闇の中から自分を窺っている者の正体を知りたいというよりは、相手が白刃を振りかざして襲い掛かってくるのを心待ちにしている
火花の散る命の遣り取りの予感に、
まるで己の中に、〈飢えた獣〉を一匹飼っているかのように。
この闘争への希求が、若い娘の白い柔肌に歯を立て、その血を吸いたいという異様な衝動とは別ものなのか、あるいは同じものの表と裏に過ぎぬのか。当の本人にも全く見当がつかない。
『おぬしに欠けているのは、勝負に対する貪欲さだ。なりふり構わず相手を倒そうという気迫が足りぬ』
亡き師に、かつてそう戒められた。
今の自分を見たら、師は何と言うであろうか。
先程もそうだ。
見るからに恐ろしげな人外の存在に遭遇したというのに、ただ相手を打ち倒すということしか意識になく、怯える心は殆ど皆無と言ってよかった。
(何かが、おれという人間を内側から喰らっている。おれの
元々己のうちに棲んでいたのか、あるいは外から入り込んだのか。
とにかく、その
何か
が闇の中に息を潜めているのを感じる。不穏な息遣いまで耳に聞こえるようだ。(そやつが、いつかおれという存在を喰らい尽くしてしまうのではないか)
その予感には当然、不安と焦慮が伴う。だが同時に、思い切り声を上げて笑いたいような痛快さもどこかで感じているのだ。
絶対の強さに対する激しい
それは武士の――いや、男という生き物のやっかいな本質なのかもしれなかった。
月が、
将夜の左手の親指が、すっと鍔から離れた。
いつの間にか、瓦屋根の上にあった気配が消えている。
暴走寸前だった内なる〈獣〉の力が次第に弱まってゆき、それと入れ替わるように少しずつ、本来の自分が戻ってくる。
息を、ゆっくりと吐き出す。
見上げる空に、
血色の月。
しかし、その光を浴びた将夜の顔はあくまで白かった。
生気がないという意味ではない。肌の色素そのものが持つ白さのようであった。月光を吸い込むのではなく、逆に照り返すような
「む……」
不意に足を止めた。何かを忘れているような気がしたのだ。
二三歩行って、また立ち止まる。
道の上に伸びた影法師も、一緒に首を
やがて、ぽんと一つ手を叩いた。
「しまった! 宗助のことをすっかり失念しておった」