第三十六話 将夜と重蔵の最後の立ち会いのこと
文字数 1,133文字
向かい合っている。
正眼に構えた竹刀の切っ先の向こうに、鶴のように痩せた老人の姿がある。
楢井重蔵。
師と立ち会い稽古をするのは、久しぶりだった。
このところ、重蔵の身体の具合がすぐれないからだ。
齢 七十五というのは当時としては相当な高齢と言ってよく、それを考えれば無理はできない筈だったが……。
今日は珍しく重蔵が道場に顔を出し、端座して黙然 と稽古を見守った後、将夜と直之、それから瑠璃だけを道場に残した。
ただ、立ち合い稽古の相手に指名されたのは将夜だけで、直之と瑠璃は道場の隅に控えている。
得物 は竹刀だが、防具は身につけていない。
「さあ、何を待っておる? 遠慮なく打ち込んで参れ」
将夜の腋の下は、既にじっとりと汗で濡れている。
(くっ……)
遠慮して打ち込まないのではない。打ち込めないのだ。
無造作 に竹刀を握って、ふわりと立っているように見えながら全く隙がない。
しかも、見つめているうちにその竹刀がだんだん大きくなってくる気がする。
重蔵の姿が殆どその後ろに収まってしまうほどに。
逆に将夜の足は、床板にぴたりと貼り付いて動かない。いや、動けぬ。
透明な鎖が重蔵の竹刀の先から伸びて、将夜の身体を縛ってくるのだ。
「たあッ」
裂帛 の気合が将夜の口から発せられた。
身を縛る鎖が、一瞬緩む。
その機を逃 さず、将夜は一気に間合いを詰めて重蔵の懐に飛び込むと渾身の一撃を放った。
しかし――
空を切った。
一瞬、重蔵の身体の中を己の竹刀が通り抜けた気がした。
残像。
残像を実体と見誤るほど、重蔵の動きが迅 かったのだ。
颯 。
痩身が翻る。刹那、それまでの軽みが嘘の如く、重蔵の全身から凄まじい殺気が放たれた。
(殺 られた…)
脳天から真 っ向 唐竹 割 りに斬り下げられた――
と将夜は思った。いや、感じた。
「おぬしに欠けているのは、勝負に対する貪欲さだ。なりふり構わず相手を倒そうという気迫が足りぬ。真剣勝負では、それが命取りとなろう」
気づけば、重蔵の竹刀は将夜の額の上に、紙一枚の厚さを隔ててぴたりと静止している。
いきなり床板が砕け、腰まで沈んだ。
実は膝をついただけだったのだが、その衝撃の大きさは、将夜に己の身体が床板を突き破って沈んだと知覚させたのである。
(斬られた)
誇張でも何でもなく、そう思った。
「士道館は直之に継がせる」
淡々とした師の声が、ひどく遠くに聞こえた。
瑠璃が真剣な顔で何か言ったようだったが、耳に入らなかった。
(おれは、真っ二つにされたのだ)
その自覚は、匂いを伴っていた。
血の匂い。
己の身体から透明な血が噴き出している。
血は身体を伝い流れ、床に落ち、溜まりをつくってゆく。
やがて――
透明な血溜まりの底で、
正眼に構えた竹刀の切っ先の向こうに、鶴のように痩せた老人の姿がある。
楢井重蔵。
師と立ち会い稽古をするのは、久しぶりだった。
このところ、重蔵の身体の具合がすぐれないからだ。
今日は珍しく重蔵が道場に顔を出し、端座して
ただ、立ち合い稽古の相手に指名されたのは将夜だけで、直之と瑠璃は道場の隅に控えている。
「さあ、何を待っておる? 遠慮なく打ち込んで参れ」
将夜の腋の下は、既にじっとりと汗で濡れている。
(くっ……)
遠慮して打ち込まないのではない。打ち込めないのだ。
しかも、見つめているうちにその竹刀がだんだん大きくなってくる気がする。
重蔵の姿が殆どその後ろに収まってしまうほどに。
逆に将夜の足は、床板にぴたりと貼り付いて動かない。いや、動けぬ。
透明な鎖が重蔵の竹刀の先から伸びて、将夜の身体を縛ってくるのだ。
「たあッ」
身を縛る鎖が、一瞬緩む。
その機を
しかし――
空を切った。
一瞬、重蔵の身体の中を己の竹刀が通り抜けた気がした。
残像。
残像を実体と見誤るほど、重蔵の動きが
痩身が翻る。刹那、それまでの軽みが嘘の如く、重蔵の全身から凄まじい殺気が放たれた。
(
脳天から
と将夜は思った。いや、感じた。
「おぬしに欠けているのは、勝負に対する貪欲さだ。なりふり構わず相手を倒そうという気迫が足りぬ。真剣勝負では、それが命取りとなろう」
気づけば、重蔵の竹刀は将夜の額の上に、紙一枚の厚さを隔ててぴたりと静止している。
いきなり床板が砕け、腰まで沈んだ。
実は膝をついただけだったのだが、その衝撃の大きさは、将夜に己の身体が床板を突き破って沈んだと知覚させたのである。
(斬られた)
誇張でも何でもなく、そう思った。
「士道館は直之に継がせる」
淡々とした師の声が、ひどく遠くに聞こえた。
瑠璃が真剣な顔で何か言ったようだったが、耳に入らなかった。
(おれは、真っ二つにされたのだ)
その自覚は、匂いを伴っていた。
血の匂い。
己の身体から透明な血が噴き出している。
血は身体を伝い流れ、床に落ち、溜まりをつくってゆく。
やがて――
透明な血溜まりの底で、
何か
が目覚めた。