第四十七話 志乃と桔梗は既に相まみえていたこと
文字数 4,814文字
『あの……志乃様、お部屋のお掃除に参りました』
『あっ、ありがとう』
振り返った志乃は頬が微かに赤らむのを覚えた。また思い出してしまっていた。
数日前の、あの夜の出来事――。
身の毛もよだつ恐ろしい獣人を、一刀の下に切り捨てたあの凛々しい武士の姿を。
恐怖に足が萎えたようになったのをしっかりと抱きとめてくれた、あのたくましい腕を。
いかにも無骨だが、その奥に優しさを秘めた声を。
あれだけの目に遭いながら、夜中に悪夢に襲われて目覚めることなく済んでいるのは、あのお方のおかげに違いない。
ただ、困るのは――
気がつくと、あの方のことばかり考えてしまっていることだ。
忙しく父の診察を手伝ったりしている時はまだいい。
自分の小部屋で調べ物などをしていると、ついついその俤を思い浮かべてしまう。
神崎将夜。
――そう仰った。
ふと、その名を紙の端に書き付けていたりする。
互いに密着していた時の感触が蘇ると、身体の芯が甘く痺れてくるようで、胸が激しく動悸を打つのだ。己の胸の膨らみを、知らずに手でそっと抑えていたりする。
(恋、かしら)
そうかもしれない。
新しい知識を得る喜びに勝るものはこの世にないと思ってきたし、父に書物の虫だと揶揄 われても、むしろ誉め言葉だと感じてきた。
(そんなわたくしが、何故――)
だが、不思議に厭な感じはない。むしろ口元が自然に綻 ぶような……。
そんな時、いきなり話しかけられたのである。
志乃は、まるで着替えの途中を覗かれた如き羞恥を覚えた。
思わず顔を赤らめた志乃を訝しがるふうでもなく、小女は部屋を片付け始めた。仕事が丁寧で、しかもてきぱきしている。志乃が広げている読みさしの資料などには決して手を触れないし、覚え書きとごみの区別も、特に教えてもいないのに誤ることがない。
『いつも、ご苦労様』
『いい……え、とんでもござい、ません……』
小女はぶんぶんと激しく首を振る。褒められたり感謝されたりすることに慣れていないように見える。
仕事もよくするし、思わずはっとするほど美しい娘だ。名を千代と言う。
飲んだくれの父に虐げられながら育ち、あながち見目 のよいのが仇となって廓 に売られる寸前だったところを、近所の人が見かねて町役人に訴え出たおかげで、養生所に引き取られることになったと聞いている。
ここで父の仕事を手伝うようになって、志乃はこの世の底辺に置かれている人々の暮らしぶりを如実に知った。
貧しい家の者にとって、子は労働力以外の何ものでもない。年端 もいかぬうちから骨の軋 むほどの重労働は当たり前で、しくじりをすれば容赦なく撲り、蹴る。病になっても放りっぱなしなのだから、寺子屋で読み書きを習うどころではない。一番恐ろしいのは、そうやって子供を酷使している親に、子を虐げているという意識が全くないことだった。自分も親にそうされてきたのだし、親自身も自分の仕事に追いまくられ、子の将来を考えている暇などそもそもないのだ。
そんな生活を送っている人でさえ、見るに見かねたというのだから、これまで一体どんな辛い日々に耐えてきたのだろうか。故に志乃は、千代が不憫 でならない。これだけ聡 いのだから、今に読み書きでも教えてあげようかと思っている。読み書きができるだけで、口を糊 する手段はぐんと増える。心根の悪い者からいいように騙され、搾り取られることもなくなる筈だ。
世の中を変えようなどという大それた考えは、志乃にはない。御政道のことはお上に任せておけばいい。ただ、己の為 していることが少しでも、千代のような境遇にある者の役に立つなら、それでもう充分な喜びだし、やり甲斐のある仕事だと思っている。
『お千代、どうしたの』
やさしく訊いた。
いつもは掃除が終わればすぐ出ていく千代が、なぜか留 まってもじもじしていた。
『あのう……』
『何? どんなことでも言っていいのよ』
志乃の笑顔に勇気づけられたのか、千代はようやくおずおずと口を開いた。
『こんなことは、余計なお世話だって、自分でも、わかってるんですが……。志乃様、ここ何日か、よくぼんやりとなさっている、みたいなので、御加減でも悪いのかと、あたし、心配で……』
『まあ』
訥々と、でも真剣に千代がいう言葉を聞いて、志乃は目を瞠った。
千代にも気づかれるほど、自分はひどくぼんやりしていたらしい。
『何でもないのよ。ちょっと考え事があって……。でも、もう大丈夫なの。大したことじゃないから』
『それなら、いいんですけど……。この間、なんかお経みたいな、へんてこりんな言葉を呟いて、いらっしゃって……。確か、〈きんぐ・りゅかおおん〉って……』
『…………!』
あまりの不意打ちに、志乃は声が出なかった。
確かにあの晩の出来事は、微 に入 り細 を穿 つように、繰り返し思い出している。
例えば、獣人が人の姿に戻ったのを見て、愕然としたこと。
屍体 となって横たわっている男の顔に見覚えがあった。薬品会で、平賀源内の手伝いをしていた男の一人によく似ていた。
薬品会には元々興味があった。名高い平賀源内という人にも、一度会ってみたいと思っていたので、期待に胸を躍らせて出かけて行ったのである。
薬品会そのものは評判通り充実していた。
しかし、実際に会った平賀源内は――
(この方は、恐ろしい)
全身に禍々しい気を漲 らせている。邪悪の塊としか見えない。
ただ、不思議なことに、周りの誰もそのことに気づいていない。志乃が尊敬する杉田玄白でさえ、源内と愉しそうに談笑している。
薬品会にいるうちに、志乃はだんだん気分が悪くなってきた。
(おかしいわ。どこかが歪んでいる。皆、夢でも見せられているのではないかしら)
そう思ったが、誰にも話せない。
あやしいのは、源内本人だけではない。源内の仕事を手伝っている男がいた。役者のようにのっぺりした顔だが、目付きが鋭すぎて、とても堅気 とは思えなかった。
その男が時折ちらちらと、こちらに視線を飛ばしてくるような気がし、その度に志乃は背筋が寒くなるのを覚えたのだ……。
記憶は何度も反芻し、間違いのないことを確かめた。そうした過程で必然的に、獣人が発した最後の言葉が蘇ってくる。それをうっかり口にし、千代に聞かれていたというのだろうか。自覚はないが、ここ数日来の、ともすれば白昼夢でも見ている如き状態では、口にしなかったとは言い切れない。
志乃の表情に気づいたらしく、千代の顔色が変わった。
いきなり両手を畳につくと、
『すみません! あ、あたし、とんでもないことを申し上げました。お許しください、お許しください!』
続けざまに頭を下げると、逃げるように部屋から出て行こうとする。
『待って、違うの。お千代――』
志乃は慌てて呼び止めた。
『あなたの発音が正確だったのでびっくりしただけ。大丈夫だから、ここに座って、ね。お願い』
千代はおっかなびっくりといった様子で、そろそろと志乃の前にかしこまる。
『あれはお経なんかじゃないの。異国の言葉よ』
『い、異国の言葉……で、ございます、か?』
千代はごくりと唾を呑み込む。
『紅毛人の言葉なのだけれど、心配しなくていいわ。ここではお上から許されて異国のことを調べているのだから。お前が今口にした言葉の意味を、教えてあげましょうか』
獣人に関することは一切他言 無用 と、父から厳しく申し付けられている。
それを、ふと話してみたくなった。
ほんの悪戯心 のように。
自らを律することに慣れた志乃にしては、極めて珍しい心の動きだと言わねばならぬ。
実はこれは、千代――桔梗がかけている心術 のせいだったのである。
心術というのは、一種の心理トリックだ。
くノ一は、男の忍者より心術に長 けていると言う。
桔梗が、養生所に潜り込んだ理由は二つ。
一つは、神崎将夜との接触。
もう一つは、志乃に心術をかけて、南蛮魔族に関する知識を得ることだ。
魔族についての研究は、志乃の方が斎木より遙かに深いことは明らかだった。直接彼女から聞き出した方が手っ取り早く、且つ正確である。御庭番らしい合理的な思考であった。
千代という架空の少女に、桔梗は偽りの身の上と性格を付与した。言うまでもなく、心術を最も効果的にかけるためだ。
案の定、志乃は千代に深く同情した。同情は心の壁を突き崩す。一旦壁の取り払われた心は、極めて術にかかり易くなる。質問の不自然さにも気づかず、ふだんは決して口にしないことまで、すらすらと答えてしまう。
しかも、そうした志乃の心の動きの逐一を、桔梗は紙に書かれた文字を読むように的確に捉えているのである。
故に、桔梗は知っていた。
志乃の心には、あの晩の棘が刺さったままになっていることを。
棘とは、何か。
将夜の前で、己の身分と居所を偽ってしまったことである。
あの日、出かけようとした志乃に、斎木がさりげない調子で話しかけてきた。
帰りが遅くならないようにとか、身の安全にはくれぐれも注意しろとか、年頃の娘を持つ父親らしいお決まりの台詞の後、こんなことを言った。
『それでも、万一何らかの事件に巻き込まれた場合は――』
奉行所の者に身元を聞かれても、正直に答えてはならぬ。
いつになく厳めしい父の顔に、理由を尋ねることさえ憚られた。別に何事も起こらなければそれでいいと、その場は無理に自分を納得させたのだが……。
果たして、あの事件が起こった。
奉行所の同心の取調べを受けた。父の言い付け通り、身元を誤魔化した。
でも、己の名だけは偽らなかった。本当は偽名を使った方がよかったのだろう。が、そうしなかった。本名を告げておけば、また神崎将夜に会える。何故か、そんな気がした。
それにしても――
(父上は何か御存知だったのではあるまいか)
注意を受けた日の夜である。あまりにできすぎている気がする。
養生所の地下に狼憑きが閉じ込められている。父の本当の仕事は、その狼憑きを調べることだ。
狼憑きという特種な症状に医学的興味を惹かれる気持ちは、志乃にも理解できる。
だが、それだけなのだろうか。
報酬的に見れば、養生所の医師は決して割のいい仕事ではない。長崎で蘭医学を修めた優秀な医者が就くにしては、やや地味すぎる仕事だ。
ただ、その功績によっては将軍家御典医 としての道が開ける可能性もある。
もちろん、医師としての立身出世を目指すのが悪いということではない。上に行って初めてできる仕事もあるだろう。娘の贔屓目ではなく、斎木の腕は当代一流だと志乃は信じている。信じてはいるが……。
(あまり政 に近づきすぎて、危険なことにならなければよいが)
はっきりした根拠はない。だが、水に落ちた墨の一滴のように、心のうちに滲んでくる翳がある。謂わば、本能的な恐怖と言うべきものだ。
高い処に登ると、激しい恐怖を感じる人がいる。そういう人は恐怖があまりに嵩 じると、なんと自ら跳び下りてしまう。
一見矛盾した行動のようだが、理由は極めて単純だ。
恐怖の原因は、己の足が地から離れることにある。その恐怖を解消するには、再び足を地に着けなければならぬ。その目的を達成するための最短且つ最速の方法が、即ち〈跳び下りること〉なのである。
志乃の心の動きも、それと少し似ていたやもしれぬ。
――父は危険なことに首を突っ込んでなどいない。他言してはならぬと言ったのも、万一を慮 ったにすぎない。だから、この娘に少しくらい打ち明けても大事はない筈だ。いや、大丈夫だということを確かめて楽になりたい。
楽になりたいから、話す。
『〈りゅかおおん〉というのは、わたしにもよくわからないの。でも、〈きんぐ〉の意味なら知っているわ』
志乃は言ってしまっていた。
『王という意味なのよ。〈きんぐ〉というのは――』
己が心術に操られているとは、夢にも知らずに。
『あっ、ありがとう』
振り返った志乃は頬が微かに赤らむのを覚えた。また思い出してしまっていた。
数日前の、あの夜の出来事――。
身の毛もよだつ恐ろしい獣人を、一刀の下に切り捨てたあの凛々しい武士の姿を。
恐怖に足が萎えたようになったのをしっかりと抱きとめてくれた、あのたくましい腕を。
いかにも無骨だが、その奥に優しさを秘めた声を。
あれだけの目に遭いながら、夜中に悪夢に襲われて目覚めることなく済んでいるのは、あのお方のおかげに違いない。
ただ、困るのは――
気がつくと、あの方のことばかり考えてしまっていることだ。
忙しく父の診察を手伝ったりしている時はまだいい。
自分の小部屋で調べ物などをしていると、ついついその俤を思い浮かべてしまう。
神崎将夜。
――そう仰った。
ふと、その名を紙の端に書き付けていたりする。
互いに密着していた時の感触が蘇ると、身体の芯が甘く痺れてくるようで、胸が激しく動悸を打つのだ。己の胸の膨らみを、知らずに手でそっと抑えていたりする。
(恋、かしら)
そうかもしれない。
新しい知識を得る喜びに勝るものはこの世にないと思ってきたし、父に書物の虫だと
(そんなわたくしが、何故――)
だが、不思議に厭な感じはない。むしろ口元が自然に
そんな時、いきなり話しかけられたのである。
志乃は、まるで着替えの途中を覗かれた如き羞恥を覚えた。
思わず顔を赤らめた志乃を訝しがるふうでもなく、小女は部屋を片付け始めた。仕事が丁寧で、しかもてきぱきしている。志乃が広げている読みさしの資料などには決して手を触れないし、覚え書きとごみの区別も、特に教えてもいないのに誤ることがない。
『いつも、ご苦労様』
『いい……え、とんでもござい、ません……』
小女はぶんぶんと激しく首を振る。褒められたり感謝されたりすることに慣れていないように見える。
仕事もよくするし、思わずはっとするほど美しい娘だ。名を千代と言う。
飲んだくれの父に虐げられながら育ち、あながち
ここで父の仕事を手伝うようになって、志乃はこの世の底辺に置かれている人々の暮らしぶりを如実に知った。
貧しい家の者にとって、子は労働力以外の何ものでもない。
そんな生活を送っている人でさえ、見るに見かねたというのだから、これまで一体どんな辛い日々に耐えてきたのだろうか。故に志乃は、千代が
世の中を変えようなどという大それた考えは、志乃にはない。御政道のことはお上に任せておけばいい。ただ、己の
『お千代、どうしたの』
やさしく訊いた。
いつもは掃除が終わればすぐ出ていく千代が、なぜか
『あのう……』
『何? どんなことでも言っていいのよ』
志乃の笑顔に勇気づけられたのか、千代はようやくおずおずと口を開いた。
『こんなことは、余計なお世話だって、自分でも、わかってるんですが……。志乃様、ここ何日か、よくぼんやりとなさっている、みたいなので、御加減でも悪いのかと、あたし、心配で……』
『まあ』
訥々と、でも真剣に千代がいう言葉を聞いて、志乃は目を瞠った。
千代にも気づかれるほど、自分はひどくぼんやりしていたらしい。
『何でもないのよ。ちょっと考え事があって……。でも、もう大丈夫なの。大したことじゃないから』
『それなら、いいんですけど……。この間、なんかお経みたいな、へんてこりんな言葉を呟いて、いらっしゃって……。確か、〈きんぐ・りゅかおおん〉って……』
『…………!』
あまりの不意打ちに、志乃は声が出なかった。
確かにあの晩の出来事は、
例えば、獣人が人の姿に戻ったのを見て、愕然としたこと。
薬品会には元々興味があった。名高い平賀源内という人にも、一度会ってみたいと思っていたので、期待に胸を躍らせて出かけて行ったのである。
薬品会そのものは評判通り充実していた。
しかし、実際に会った平賀源内は――
(この方は、恐ろしい)
全身に禍々しい気を
ただ、不思議なことに、周りの誰もそのことに気づいていない。志乃が尊敬する杉田玄白でさえ、源内と愉しそうに談笑している。
薬品会にいるうちに、志乃はだんだん気分が悪くなってきた。
(おかしいわ。どこかが歪んでいる。皆、夢でも見せられているのではないかしら)
そう思ったが、誰にも話せない。
あやしいのは、源内本人だけではない。源内の仕事を手伝っている男がいた。役者のようにのっぺりした顔だが、目付きが鋭すぎて、とても
その男が時折ちらちらと、こちらに視線を飛ばしてくるような気がし、その度に志乃は背筋が寒くなるのを覚えたのだ……。
記憶は何度も反芻し、間違いのないことを確かめた。そうした過程で必然的に、獣人が発した最後の言葉が蘇ってくる。それをうっかり口にし、千代に聞かれていたというのだろうか。自覚はないが、ここ数日来の、ともすれば白昼夢でも見ている如き状態では、口にしなかったとは言い切れない。
志乃の表情に気づいたらしく、千代の顔色が変わった。
いきなり両手を畳につくと、
『すみません! あ、あたし、とんでもないことを申し上げました。お許しください、お許しください!』
続けざまに頭を下げると、逃げるように部屋から出て行こうとする。
『待って、違うの。お千代――』
志乃は慌てて呼び止めた。
『あなたの発音が正確だったのでびっくりしただけ。大丈夫だから、ここに座って、ね。お願い』
千代はおっかなびっくりといった様子で、そろそろと志乃の前にかしこまる。
『あれはお経なんかじゃないの。異国の言葉よ』
『い、異国の言葉……で、ございます、か?』
千代はごくりと唾を呑み込む。
『紅毛人の言葉なのだけれど、心配しなくていいわ。ここではお上から許されて異国のことを調べているのだから。お前が今口にした言葉の意味を、教えてあげましょうか』
獣人に関することは一切
それを、ふと話してみたくなった。
ほんの
自らを律することに慣れた志乃にしては、極めて珍しい心の動きだと言わねばならぬ。
実はこれは、千代――桔梗がかけている
心術というのは、一種の心理トリックだ。
くノ一は、男の忍者より心術に
桔梗が、養生所に潜り込んだ理由は二つ。
一つは、神崎将夜との接触。
もう一つは、志乃に心術をかけて、南蛮魔族に関する知識を得ることだ。
魔族についての研究は、志乃の方が斎木より遙かに深いことは明らかだった。直接彼女から聞き出した方が手っ取り早く、且つ正確である。御庭番らしい合理的な思考であった。
千代という架空の少女に、桔梗は偽りの身の上と性格を付与した。言うまでもなく、心術を最も効果的にかけるためだ。
案の定、志乃は千代に深く同情した。同情は心の壁を突き崩す。一旦壁の取り払われた心は、極めて術にかかり易くなる。質問の不自然さにも気づかず、ふだんは決して口にしないことまで、すらすらと答えてしまう。
しかも、そうした志乃の心の動きの逐一を、桔梗は紙に書かれた文字を読むように的確に捉えているのである。
故に、桔梗は知っていた。
志乃の心には、あの晩の棘が刺さったままになっていることを。
棘とは、何か。
将夜の前で、己の身分と居所を偽ってしまったことである。
あの日、出かけようとした志乃に、斎木がさりげない調子で話しかけてきた。
帰りが遅くならないようにとか、身の安全にはくれぐれも注意しろとか、年頃の娘を持つ父親らしいお決まりの台詞の後、こんなことを言った。
『それでも、万一何らかの事件に巻き込まれた場合は――』
奉行所の者に身元を聞かれても、正直に答えてはならぬ。
いつになく厳めしい父の顔に、理由を尋ねることさえ憚られた。別に何事も起こらなければそれでいいと、その場は無理に自分を納得させたのだが……。
果たして、あの事件が起こった。
奉行所の同心の取調べを受けた。父の言い付け通り、身元を誤魔化した。
でも、己の名だけは偽らなかった。本当は偽名を使った方がよかったのだろう。が、そうしなかった。本名を告げておけば、また神崎将夜に会える。何故か、そんな気がした。
それにしても――
(父上は何か御存知だったのではあるまいか)
注意を受けた日の夜である。あまりにできすぎている気がする。
養生所の地下に狼憑きが閉じ込められている。父の本当の仕事は、その狼憑きを調べることだ。
狼憑きという特種な症状に医学的興味を惹かれる気持ちは、志乃にも理解できる。
だが、それだけなのだろうか。
報酬的に見れば、養生所の医師は決して割のいい仕事ではない。長崎で蘭医学を修めた優秀な医者が就くにしては、やや地味すぎる仕事だ。
ただ、その功績によっては将軍家
もちろん、医師としての立身出世を目指すのが悪いということではない。上に行って初めてできる仕事もあるだろう。娘の贔屓目ではなく、斎木の腕は当代一流だと志乃は信じている。信じてはいるが……。
(あまり
はっきりした根拠はない。だが、水に落ちた墨の一滴のように、心のうちに滲んでくる翳がある。謂わば、本能的な恐怖と言うべきものだ。
高い処に登ると、激しい恐怖を感じる人がいる。そういう人は恐怖があまりに
一見矛盾した行動のようだが、理由は極めて単純だ。
恐怖の原因は、己の足が地から離れることにある。その恐怖を解消するには、再び足を地に着けなければならぬ。その目的を達成するための最短且つ最速の方法が、即ち〈跳び下りること〉なのである。
志乃の心の動きも、それと少し似ていたやもしれぬ。
――父は危険なことに首を突っ込んでなどいない。他言してはならぬと言ったのも、万一を
楽になりたいから、話す。
千代なら
、大丈夫
。『〈りゅかおおん〉というのは、わたしにもよくわからないの。でも、〈きんぐ〉の意味なら知っているわ』
志乃は言ってしまっていた。
『王という意味なのよ。〈きんぐ〉というのは――』
己が心術に操られているとは、夢にも知らずに。