第四十二話 女剣客と女医者は初めて相まみえること

文字数 1,609文字

 ――妙な空気だった。
 戸を開けた姿勢のまま固まってしまった瑠璃。しかも信じがたいことに、瑠璃の後ろから物見高い長屋の連中の顔がいくつも覗いているのだ。
 将夜は手を引くようにして瑠璃を中に入れ、すばやく戸を()てる。
「なんだ、敵討(かたきう)ちじゃなかったのかよ」
「斬り合いでもおっぱじまるかと思ったのにな」
 いかにも残念そうに呟く声さえ洩れ聞こえてくる。将夜は思わず溜息を吐いた。この出来事は相当尾鰭(おひれ)が付いて伝播されることを覚悟せねばなるまい。
 それでも、とりあえず外から見られる心配はなくなったわけだが、いかんせん部屋が狭い。
 三人もいると、文字通り膝突き合わせる形になってしまい、どうにも気まずい空気が漂う。
 将夜は先ず瑠璃に向かって、
「こちらは志乃殿だ。小石川養生所で父君(ちちぎみ)と共に医師をなされておられる」
 と紹介した。続いて志乃の方を見て、
「こちらは瑠璃――殿。我が師の一人娘です」
「志乃でございます」
 志乃は女同士の親しみを込めて、柔らかく笑いかけたが、何が気に入らないのか、瑠璃は志乃と目を合わせようとせず、
「瑠璃と申す」
 ぶっきら棒に一言答えただけだ。
「瑠璃様も剣術を?」
 志乃は瑠璃に尋ねたのだが、瑠璃は答えない。仕方なく将夜が代わりに、
「〈暴れ駒〉の異名を持つ剣客です。この間も道場でひどい目に遭わされました」
「まあ、瑠璃様はそんなにお強いのでございますか」
 志乃が感嘆の声を上げると、
「そんなことはない!」
 叫ぶように瑠璃は言った。
「お、おい、どうしたんだ?」
 将夜はあっけに取られた。瑠璃の喧嘩腰はいつものことだが、それは将夜のみに向けられるものだ。男勝りと言っても、やはりそこは重蔵の娘で、武家の女としての礼儀作法はきちんと身に付けている。初めて会った、しかも、女性に向かって大声を出すような不作法をする筈はないのだが……。
 瑠璃も自らの声に自分で驚いたように、急に小声で口篭りながら、
「こ、こいつは……わ、わたしを女だと莫迦にして、いつも本気を出さないのです。そういう卑怯な奴なのです、こいつは……」
「おれは手加減などしたことはないぞ。この間のあれは本当に効いた。思いっ切り打ち据えやがって」
「う、うるさいぞ、神崎将夜! 大方お前は女に打たれて(よろこ)ぶという妙な性癖を持っているのであろう。そうだ、それに違いない。恥を知れ!」
「そんな性癖などありはせん。まったく、わざわざここへおれの悪口を言いにきたのか?」
 瑠璃は一瞬、喉の奥でぐっという音を立てたが、すぐに人差し指を将夜の顔の前にびしっと突きつけて(わめ)いた。
「悪口ではない! 事実だ! お前のような恥知らずな男とは絶交――いや、亡き父上に代わって破門してやる! 破門だ破門だ破門だっ、二度と士道館の敷居を跨ぐことは許さん。いいか、わかったか。わかったら返事をしろ!」
 返事をしろと言っておきながら、将夜の答えも待たずにいきなり立ち上がって土間に飛び降りた。下駄を突っかけるや、戸を突き破るように外へ飛び出す。
 ぎゃっという悲鳴が上がったから、しつこく聞き耳を立てていた長屋の連中が二、三人跳ね飛ばされたのかもしれない。
 将夜も慌てて土間に降り、そこではっと志乃の方を振り返った。
「後で御宅までお送りするによって、暫時(ざんじ)お待ちいただけるだろうか。瑠璃は普段はこんなおかしな娘では――いや、ふだんも多少変わってはいるのだが、その……」
「神崎様、わたくしのことはお構いなく。はやく、瑠璃様を。おはやく」
「かたじけない」
 一礼すると、将夜も外へ走り出たが、既に瑠璃の姿は宵闇の中に消えている。
 男が追いかけてくることを見越して、わざと捉まるように逃げたふりをするなどという芸当のできる娘ではないのだ。おそらく、全力で駆け去ったに違いない。
「ちっ、世話が焼ける」
 長屋の木戸を出て辺りに人気(ひとけ)がないのを確かめると、将夜は軒下の暗がりを縫うように、常人ならざる速度で疾駆した。
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登場人物紹介

妹・ひさ江(作中では武家の娘だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すごく心配です。

美少女剣士・瑠璃(町道場の女剣客だが、もし現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:生意気だ、神崎将夜のくせに。

女医者・志乃(町医者の娘だが、もし現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:命の恩人として感謝してもしきれません。

くノ一・桔梗(公儀隠密であるお庭番の忍者だが、現代人だったこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:…………。

おみよ(居酒屋で働く娘だが、現代人だったらこんなイメージ)

Q:神崎将夜に対する気持ちを一言で表すと?

A:すてきなお武家様です。宗助様のお友達でなければもっといいのですけれど……


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