第二十九話 将夜の部屋の行灯は油の無駄なこと
文字数 1,202文字
「あの生業 にしてやがるんだ?」
「知らないよ。昼間、表へ出てるのを見たこたァないんだから」
「夜になると出かけるんだってな?」
「おこうさんは女 じゃないかっていうんだけどね。あたしゃ、違うと思うね」
「じゃあ、何なんだよ」
「あれは、もしかして悪党じゃないのかい? だってこの前、八丁堀 の旦那があの侍のことを訊きにきたんだよ」
「八町掘の旦那が直々 に? そりゃあ、穏やかじゃねえな」
「だろう? もしかしてさ……」
急に低い声になる。相手の耳元で囁いているらしい。
「つ、辻斬 りィ?」
「しッ、声が大きいよ。莫迦 だね、お前さんは。聞こえちまうだろ?」
「……な、なんでぃッ、わ、わざと聞こえるように言ってんだよ。二本差 しが怖くて蒲焼が喰えるかってんだ、べらぼうめ」
「威勢がよくてけっこうだけど、お前さん、声が震えてるよ」
「う、うるせぇや! おれっちの天秤棒 の威力を知らねえな」
「お前さんのへっぴり腰じゃ、猫の子一匹も倒せやしないよ」
「おっかさーん。腹へったよー」
「はいはい、おまんまにしようね。お父 っつぁんたら、御武家さんの悪口なんか言っちゃって、大丈夫かねえ。斬られる時は、一人で斬られておくれよ」
「斬られるのはおれっち一人かよ。……ったく、一緒になる時は『あたしとお前さんは一蓮 托生 よ』なんて言ってやがったくせに。ひでえ女だなあ」
「うるさいね、いつの話だよ。天地 開闢 以前じゃないのかい? さ、はやく飯喰って寝ちまいな。明日も早いんだからさ」
将夜はここまで聞いて、苦笑する。
長屋の連中は口さがないが、他愛ないと言えば他愛ない。
部屋の隅に置かれた行灯 が、ぼんやりとした光を投げている。
夜の将夜の視力は、明かりなどなくてもはっきり物が見えるのだが、行灯もつけずにいれば、また何を言われるかわからない。辻斬りはそれでもまだ人間だが、今度は化け物扱いされかねない。
将夜は静かに、手の中のものを広げる。
蘇芳色の袱紗包み。
神崎の家へ行く時、母が渡してくれた唯一の物。
その後の母の消息を、将夜は知らない。
健やかでおわすかどうかさえ――。
幼い自分が母と暮らしていた部屋を将夜は覚えている。
凛としていながら温かく、優しげなその人の佇まいも。
ただ、肝心なその顔 は年を経るに従い、淡い光に覆われてゆく如く霞んでしまう。
そこが、切ない。
そして奇妙なことに、部屋以外の記憶がない。
今にして思えば――
あれは座敷牢のようなものではなかったか。
食事などを運んでくる女中らしき者はいたが、彼女らと言葉を交わしたこともなかった気がする。
もしそうだとしたら、母は今でもあの中に閉じ込められているのであろうか。
(あるいは……)
将夜は首を振った。それ以上は、考えたくない。
再び掌中 の袱紗を見つめ、そっと鼻に近づける。
常人にはかぎ得ない微かな匂いを、鋭敏化した夜の嗅覚ははっきりと知覚するのである。
さむれえ
は、いってぇ何を「知らないよ。昼間、表へ出てるのを見たこたァないんだから」
「夜になると出かけるんだってな?」
「おこうさんは
「じゃあ、何なんだよ」
「あれは、もしかして悪党じゃないのかい? だってこの前、
「八町掘の旦那が
「だろう? もしかしてさ……」
急に低い声になる。相手の耳元で囁いているらしい。
「つ、
「しッ、声が大きいよ。
「……な、なんでぃッ、わ、わざと聞こえるように言ってんだよ。
「威勢がよくてけっこうだけど、お前さん、声が震えてるよ」
「う、うるせぇや! おれっちの
「お前さんのへっぴり腰じゃ、猫の子一匹も倒せやしないよ」
「おっかさーん。腹へったよー」
「はいはい、おまんまにしようね。お
「斬られるのはおれっち一人かよ。……ったく、一緒になる時は『あたしとお前さんは
「うるさいね、いつの話だよ。
将夜はここまで聞いて、苦笑する。
長屋の連中は口さがないが、他愛ないと言えば他愛ない。
部屋の隅に置かれた
夜の将夜の視力は、明かりなどなくてもはっきり物が見えるのだが、行灯もつけずにいれば、また何を言われるかわからない。辻斬りはそれでもまだ人間だが、今度は化け物扱いされかねない。
将夜は静かに、手の中のものを広げる。
蘇芳色の袱紗包み。
神崎の家へ行く時、母が渡してくれた唯一の物。
その後の母の消息を、将夜は知らない。
健やかでおわすかどうかさえ――。
幼い自分が母と暮らしていた部屋を将夜は覚えている。
凛としていながら温かく、優しげなその人の佇まいも。
ただ、肝心なその
そこが、切ない。
そして奇妙なことに、部屋以外の記憶がない。
今にして思えば――
あれは座敷牢のようなものではなかったか。
食事などを運んでくる女中らしき者はいたが、彼女らと言葉を交わしたこともなかった気がする。
もしそうだとしたら、母は今でもあの中に閉じ込められているのであろうか。
(あるいは……)
将夜は首を振った。それ以上は、考えたくない。
再び
常人にはかぎ得ない微かな匂いを、鋭敏化した夜の嗅覚ははっきりと知覚するのである。