第三十二話 目を閉じていると女の匂いがわかること
文字数 1,377文字
意識は、既に戻っていた。
だが、まだ目は開けない。
自分の置かれている状況に対して、皆目見当がつかないからだ。
横たわった姿勢であることはわかる。
慎重に指先を、ほんの少しだけ動かしてみる。
どうやら拘束されているわけではないようだ。
ただ、近くに人の気配を感じる。
仄かにだが、よい匂いがする。女らしい。
ただ、先程自分を襲った少女とは匂いが違う。あの物騒な少女は、おそらく獣人を斬った晩から己を監視していたくノ一だと当たりをつけている。笹尾の言葉を信じるなら、御庭番ということになる。
(道理で猫の如く身軽だったわけだ)
少女の華奢 な肢体を瞼の裏に描いて、将夜は思う。
儚 げな様子とは異なり、繰り出す技は火を吹くほどの凄まじさだった。
(そうだとすれば……おれは何故無事でいるのか)
当然の疑問である。
あの状況で気を失ったのなら、まず命はないものと思わねばならない。
将夜を捕えるのが目的だったとも考えられるが、それなら手足を自由にしておく点が解せぬ。
背中の感触は畳のそれで、牢のような場所に放り込まれているわけでもなさそうだ。
しかも、傍らに女の匂いがある。
(ままよ。どうなろうと知ったことか)
将夜は思い切って目を開いた。
「お気がつかれましたか」
すぐに、柔らかな声が響いた。
「あ」
将夜もさすがに、それしか言えなかった。
「動いてはならぬ。少しそのままにしておられよ」
今度は低く濁った声がして、男が将夜の枕元に膝をついた。慣れた手つきで素早く将夜の眸を覗き込み、脈を診る。
「うむ、正常だ。起き上がってかまわぬ」
女が手を貸そうとするのを断り、将夜は自力で起き上がる。
頬の痛みは消えていない。思わず顔を顰めた。
「養生所というのは、なかなか手荒に患者を扱う処 のようですな」
男の一挙手 一投足 を注意深く見まりながら、将夜は言った。
男は微かな笑いを口辺に浮かべている。落ち着いたものだ。
「神崎殿と申されるそうだの。そなたは、自らを患者だと仰せになるのか」
「いかにも。妙な病に罹り、難儀を致しております。この病は治せるのでしょうか、斎木 方生 殿」
相手は、暫くじっと将夜の顔を見つめた後で、言った。
「あなたは玄関番の男に、いきなり私の名を告げて面会を求められた。ただ、私はあなたに面識がない。何故私の名を知っているのか、お聞かせ願えますかな」
「生方 木斎 の娘という方に会ったからです。笹尾という定町廻りの話では、生方木斎という名の町医はいないそうです。だが、人はとっさの間にそうそう架空の名を思い付けるものではない。
多くは名の一部だけ変える。あるいは、逆さから読む。そこで、あてずっぽうに言ってみたのでござるが、どうやら図星だったようですな。その娘御 は、志乃 と名乗られた。これも偽名か否 か定かではないが……」
傍らの女が無言で俯いたのを見遣 ると、将夜は静かに微笑んだ。
「どうやらそれがしは、ここへ来るべく定められていたようです。斎木殿、もうとぼけるのはやめにしていただきたい。あなたは弥生という名の女性 を御存知だ。そうですね」
いきなり、斎木がその場にすっくと立ち上がった。
将夜は黙って斎木を見上げる。
「では、私も駆け引きは抜きでいこう。神崎殿、あなたに見ていただきたいものがある。――話は、その後だ」
正面から将夜の目を見下ろして、斎木が言った。
だが、まだ目は開けない。
自分の置かれている状況に対して、皆目見当がつかないからだ。
横たわった姿勢であることはわかる。
慎重に指先を、ほんの少しだけ動かしてみる。
どうやら拘束されているわけではないようだ。
ただ、近くに人の気配を感じる。
仄かにだが、よい匂いがする。女らしい。
ただ、先程自分を襲った少女とは匂いが違う。あの物騒な少女は、おそらく獣人を斬った晩から己を監視していたくノ一だと当たりをつけている。笹尾の言葉を信じるなら、御庭番ということになる。
(道理で猫の如く身軽だったわけだ)
少女の
(そうだとすれば……おれは何故無事でいるのか)
当然の疑問である。
あの状況で気を失ったのなら、まず命はないものと思わねばならない。
将夜を捕えるのが目的だったとも考えられるが、それなら手足を自由にしておく点が解せぬ。
背中の感触は畳のそれで、牢のような場所に放り込まれているわけでもなさそうだ。
しかも、傍らに女の匂いがある。
(ままよ。どうなろうと知ったことか)
将夜は思い切って目を開いた。
「お気がつかれましたか」
すぐに、柔らかな声が響いた。
「あ」
将夜もさすがに、それしか言えなかった。
「動いてはならぬ。少しそのままにしておられよ」
今度は低く濁った声がして、男が将夜の枕元に膝をついた。慣れた手つきで素早く将夜の眸を覗き込み、脈を診る。
「うむ、正常だ。起き上がってかまわぬ」
女が手を貸そうとするのを断り、将夜は自力で起き上がる。
頬の痛みは消えていない。思わず顔を顰めた。
「養生所というのは、なかなか手荒に患者を扱う
男の
男は微かな笑いを口辺に浮かべている。落ち着いたものだ。
「神崎殿と申されるそうだの。そなたは、自らを患者だと仰せになるのか」
「いかにも。妙な病に罹り、難儀を致しております。この病は治せるのでしょうか、
相手は、暫くじっと将夜の顔を見つめた後で、言った。
「あなたは玄関番の男に、いきなり私の名を告げて面会を求められた。ただ、私はあなたに面識がない。何故私の名を知っているのか、お聞かせ願えますかな」
「
多くは名の一部だけ変える。あるいは、逆さから読む。そこで、あてずっぽうに言ってみたのでござるが、どうやら図星だったようですな。その
傍らの女が無言で俯いたのを
「どうやらそれがしは、ここへ来るべく定められていたようです。斎木殿、もうとぼけるのはやめにしていただきたい。あなたは弥生という名の
いきなり、斎木がその場にすっくと立ち上がった。
将夜は黙って斎木を見上げる。
「では、私も駆け引きは抜きでいこう。神崎殿、あなたに見ていただきたいものがある。――話は、その後だ」
正面から将夜の目を見下ろして、斎木が言った。