第二話 ひさ江はやっぱり兄が心配なこと
文字数 3,513文字
「瘤になってるだろ、ここ」
将夜は半眼をひさ江に向けながら、箸で自分の頭を指す。
「そ、そんなことはございません」
ひさ江はさりげなく視線を逸らす。触って確かめるまでもない。将夜の額の一部が、ものの見事に腫れ上がっている。
「しかし、あれはどう考えても小兄様が悪いのです。たーんと反省なさって下さい」
どこか拗 ねたような表情を見せながら、将夜の茶碗に飯のお代わりをよそう。
温かな湯気が漂う。
(多少口煩 いが、やはりひさ江には感謝せねば、な……)
湯気越しに妹の横顔を眺めながら、将夜は思う。
将夜がこの家に引き取られたのは、五つの時だ。神崎家の現当主である長兄・数馬とひさ江は、将夜にとって異腹の兄と妹ということになる。
数馬は万事堅苦しい性格である上に、年が六つも上であることから、将夜のことなど最初から全くの子供 扱いで、今に至るまでまともに言葉をかけてもらった記憶がない。
継母である多貴 は悋気 の強い質 で、将夜の存在を知った時には屈辱のあまり、自害すると喚き立てて大変な騒ぎになった。最終的にどうにか思い止まりはしたものの、爾来 十三年、将夜には捨て犬に注ぐほどの関心も示してこなかった。偶 に廊下などで擦れ違っても、殆ど視線すら合わそうとしない。
そんな冷え冷えとした家の中で、ひさ江だけはこの新しい兄を歓迎してくれた。と言っても、最初に会った時ひさ江はやっと三つで、当時はただ、ちょうどいいままごと遊びの相手ができたと喜んでいただけであったのかもしれぬ。
将夜にとって幸運だったのは、ひさ江が母にも兄にも似ず、心根のやさしく、且つ聡 い娘であったことだ。物心つくと、将夜の複雑な立場をよく理解し、陰に回っていろいろ世話を焼いてくれるようになった。年下の身でありながら、将夜のことは自分が守ってやらねばと健気に思い定めているようなところさえある。
長兄と区別するための〈小兄様〉という呼称もひさ江が考えたもので、将夜の名に掛け、〈将兄様〉の意味も含めているらしい。ちなみに長兄のことは〈大兄様〉と呼んでいる。
家督を継がぬ次男以下を、俗に〈冷飯食い〉と呼ぶ。
家の中で余計者扱いされ、飯も冷たい残り物をあてがわれるという意味だが、実の子でさえそんな待遇に甘んじなければならぬ。ましてや継子である。たとえどんな仕打ちを受けようと、そもそも文句など言える立場ではないのだ。
それが曲りなりにも、こうして湯気の立つ飯と汁を食えるだけでなく、給仕までしてもらっている。ひさ江のことは、ゆめゆめ疎 かにはできまい。
「兄上は?」
将夜がさりげなく訊くと、
「大兄様ですか。とっくに御登城されています。小兄様がお見送りされないことも、呆れておしまいになったのか、もう何も仰いません」
本来は登城する兄を、母や妹と共に玄関で見送るのが次男の務めだ。それをしない義弟を、兄が苦々しく思っているのは知っている。が、将夜とてわざと反抗的な態度を採っているわけではない。
間もなく十八になるという時、将夜は突然体質の変化に襲われ、昼の間は異様な気だるさに苦しめられるようになったのである。
症状は日毎 に悪化し、今では直射光をまともに浴びると、まるで焼け火箸でも押し当てられたような痛みを覚える。そのくせ夜になると、まるで憑 き物 が落ちた如くすっきりし、五体に力が充ち満ちてくるから不思議だった。
「最近の小兄様のお顔の白さは異常です。いつも夜更かしなさって、昼は表に出ないからそうなるのです。偶 には道場にでもいらしてみてはいかがですか。怠惰な生活を送っていると、次第に気力そのものがなくなってゆくそうでございますよ」
反論を試みたいのだが、果たしてこんな奇態な病がこの世にあるのかという点については己 ですら半信半疑で、とてもひさ江を得心させられる自信がない。故に、甚だ不本意ながら沈黙を守っている。
かつて、己にはこれしかないとまで思い詰めて打ち込んだ剣の道だったが、今の身体が昼間の道場での激しい稽古に耐え得ぬことは明らかである。
「宗助様が悪いお方だとは申しません。けれど、しょっちゅうお二人でつるんでお酒を召し上がったり、あのようないかがわしい……いえ、絵の多い草紙を読んでおられて宜しいのでしょうか」
「そりゃあ、外聞が悪いのは認める」
「いえ、ひさ江は、他所 の人が何と言おうと気になどしません。ただ、口惜しいのです。小兄様がこのまま部屋住みの身に埋もれてしまうことが……」
「まあ、元々部屋住みの身であるし……正直、おれに埋もれて困るほどの才があるとは思えんしな」
「今は亡きお師匠の重蔵様からは、筋がよいと目をかけていただいていたではありませぬか。師範代までお務めになって」
「しかし、師は、おれには足りないものがあるとも仰せになった」
「足りないもの? まさか道場へ通われなくなったのは、それが――」
「いや、それは関係ない。今は直之殿が二代目を継いでおられるが、あの方は穏やかなお人柄故、まだおれを破門扱いにしてはおられぬと思う」
たぶんな、と気弱く付け足す将夜の脳裡に、勝ち気そうな眸 をした少女の顔がふっと浮かんだ。
「それなら一度、道場に直之様を訪ねてごらんになってはいかがです? 小兄さまが頭をお下げになり、これからは真面目に道場に通うと申されれば、よもや悪いようにはなさるまいと存じますが」
「うむ。まあ、直之殿はそうであろう。ただ……」
(あの暴れ駒が、な)
脳裡 の少女が柳眉 を逆立てて睨んでくる。
やれやれ、と心の中で溜め息を吐きつつ、将夜はふと思い出したように言った。
「実は今宵、ちょっと出掛けるつもりなのだが」
「では、早速道場へ?」
急に生き生きと眸を輝かせるひさ江から、将夜はばつの悪そうに視線を逸らし、
「いや、今日は先約があるのだ。相手はその、宗助……なんだが」
ひさ江のつぶらな眸が、失望でみるみる翳 ってゆく。
「す、すまん。今日だけだ。以後、彼奴 とはきっぱり縁を切る」
「まことでございますか」
「ああ、約束だ。指切りしてもよいぞ」
冗談で言ったつもりだったのだが、ひさ江は真面目な顔で可愛らしく小指を立てた。
そうなっては仕方なく、将夜も小指を差し出す。
幼い頃から何かと言うと、ひさ江は将夜に指切りをさせたがったものだ。児戯に等しいものながら、ほっそりした白い小指に自分の無骨な小指を絡めると、たとえそれがささいな約束であっても身命 を賭して守らねばならぬ気がしてくるから妙だ。
将夜は、こほんこほんと空咳 をした。
「お風邪ですか。体調が優れないのでしたら夜の外出は控えられた方が――」
皮肉っぽくひさ江が言う。
「か、風邪など引いてはおらぬ」
「それに、最近市中を騒がしている一件のことも、やはり気になります」
ひさ江の心配も、尤 もなのである。
今年の夏頃から、夜の辻で人が襲われる事件が起こっている。
襲われた者はいずれも絶命している。しかも、死体が異様であった。
鋭利な凶器で無茶苦茶に腹を割かれ、内臓がごっそり抉られたように消えている。
そのせいで現場は凄惨を極め、海千山千の御用聞きでさえ思わず吐き気を催す程だと言う。
しかも不思議なことに――
この凄惨な殺人が行われるのは、決まって満月の夜なのであった。
あやかしが満月に誘われて辻に立ち、通りかかる人の生き胆を喰らっていると巷 では専らの噂なのだ。いかにも恐ろしげな瓦版 の絵がその噂に尾鰭 を付け、人々の恐怖心を煽っている。
「あやかしなどという荒唐 無稽 な噂を信じているわけではございません。ただ、やっかいな出来事に小兄様が巻き込まれては、と思いまして。ただでさえ、大兄様は……」
将夜は、破顔した。ひさ江が何を案じているかわかったからだ。
ひさ江は、将夜が不行跡を理由に義絶でもされるのではないかと心配しているのだ。
「すまん。妹に心配ばかりかける悪い兄だな、おれは」
「そんな、悪い兄上だなどと……。ひさ江は小兄様のことがだい――」
うっかり何か口走りかけたひさ江は、何故か耳まで赤くなって狼狽している。
ただ、将夜の方はそんな妹の様子のおかしさには一向気づかぬらしく、鬢のあたりをぽりぽり掻きながら、
「――あやまりついでに、ひとつ頼みたいのだが」
と声を潜めた。
「え」
何事かとひさ江が目を円くする。
「その、まことに申し難いのだが、少し用立ててもらえぬだろうか……これを」
将夜の親指と人差し指が、〈○〉の形を描いた。
ひさ江は傷ついた表情で、固く唇を噛む。
しかし、相手が雨に濡れそぼった仔犬の如き風情で肩を竦めているのを見ると、この心やさしい妹は表情を緩め、ほっと小さく息を吐くのだった。
将夜は半眼をひさ江に向けながら、箸で自分の頭を指す。
「そ、そんなことはございません」
ひさ江はさりげなく視線を逸らす。触って確かめるまでもない。将夜の額の一部が、ものの見事に腫れ上がっている。
「しかし、あれはどう考えても小兄様が悪いのです。たーんと反省なさって下さい」
どこか
温かな湯気が漂う。
(多少
湯気越しに妹の横顔を眺めながら、将夜は思う。
将夜がこの家に引き取られたのは、五つの時だ。神崎家の現当主である長兄・数馬とひさ江は、将夜にとって異腹の兄と妹ということになる。
数馬は万事堅苦しい性格である上に、年が六つも上であることから、将夜のことなど最初から全くの
継母である
そんな冷え冷えとした家の中で、ひさ江だけはこの新しい兄を歓迎してくれた。と言っても、最初に会った時ひさ江はやっと三つで、当時はただ、ちょうどいいままごと遊びの相手ができたと喜んでいただけであったのかもしれぬ。
将夜にとって幸運だったのは、ひさ江が母にも兄にも似ず、心根のやさしく、且つ
長兄と区別するための〈小兄様〉という呼称もひさ江が考えたもので、将夜の名に掛け、〈将兄様〉の意味も含めているらしい。ちなみに長兄のことは〈大兄様〉と呼んでいる。
家督を継がぬ次男以下を、俗に〈冷飯食い〉と呼ぶ。
家の中で余計者扱いされ、飯も冷たい残り物をあてがわれるという意味だが、実の子でさえそんな待遇に甘んじなければならぬ。ましてや継子である。たとえどんな仕打ちを受けようと、そもそも文句など言える立場ではないのだ。
それが曲りなりにも、こうして湯気の立つ飯と汁を食えるだけでなく、給仕までしてもらっている。ひさ江のことは、ゆめゆめ
「兄上は?」
将夜がさりげなく訊くと、
「大兄様ですか。とっくに御登城されています。小兄様がお見送りされないことも、呆れておしまいになったのか、もう何も仰いません」
本来は登城する兄を、母や妹と共に玄関で見送るのが次男の務めだ。それをしない義弟を、兄が苦々しく思っているのは知っている。が、将夜とてわざと反抗的な態度を採っているわけではない。
間もなく十八になるという時、将夜は突然体質の変化に襲われ、昼の間は異様な気だるさに苦しめられるようになったのである。
症状は
「最近の小兄様のお顔の白さは異常です。いつも夜更かしなさって、昼は表に出ないからそうなるのです。
反論を試みたいのだが、果たしてこんな奇態な病がこの世にあるのかという点については
かつて、己にはこれしかないとまで思い詰めて打ち込んだ剣の道だったが、今の身体が昼間の道場での激しい稽古に耐え得ぬことは明らかである。
「宗助様が悪いお方だとは申しません。けれど、しょっちゅうお二人でつるんでお酒を召し上がったり、あのようないかがわしい……いえ、絵の多い草紙を読んでおられて宜しいのでしょうか」
「そりゃあ、外聞が悪いのは認める」
「いえ、ひさ江は、
「まあ、元々部屋住みの身であるし……正直、おれに埋もれて困るほどの才があるとは思えんしな」
「今は亡きお師匠の重蔵様からは、筋がよいと目をかけていただいていたではありませぬか。師範代までお務めになって」
「しかし、師は、おれには足りないものがあるとも仰せになった」
「足りないもの? まさか道場へ通われなくなったのは、それが――」
「いや、それは関係ない。今は直之殿が二代目を継いでおられるが、あの方は穏やかなお人柄故、まだおれを破門扱いにしてはおられぬと思う」
たぶんな、と気弱く付け足す将夜の脳裡に、勝ち気そうな
「それなら一度、道場に直之様を訪ねてごらんになってはいかがです? 小兄さまが頭をお下げになり、これからは真面目に道場に通うと申されれば、よもや悪いようにはなさるまいと存じますが」
「うむ。まあ、直之殿はそうであろう。ただ……」
(あの暴れ駒が、な)
やれやれ、と心の中で溜め息を吐きつつ、将夜はふと思い出したように言った。
「実は今宵、ちょっと出掛けるつもりなのだが」
「では、早速道場へ?」
急に生き生きと眸を輝かせるひさ江から、将夜はばつの悪そうに視線を逸らし、
「いや、今日は先約があるのだ。相手はその、宗助……なんだが」
ひさ江のつぶらな眸が、失望でみるみる
「す、すまん。今日だけだ。以後、
「まことでございますか」
「ああ、約束だ。指切りしてもよいぞ」
冗談で言ったつもりだったのだが、ひさ江は真面目な顔で可愛らしく小指を立てた。
そうなっては仕方なく、将夜も小指を差し出す。
幼い頃から何かと言うと、ひさ江は将夜に指切りをさせたがったものだ。児戯に等しいものながら、ほっそりした白い小指に自分の無骨な小指を絡めると、たとえそれがささいな約束であっても
将夜は、こほんこほんと
「お風邪ですか。体調が優れないのでしたら夜の外出は控えられた方が――」
皮肉っぽくひさ江が言う。
「か、風邪など引いてはおらぬ」
「それに、最近市中を騒がしている一件のことも、やはり気になります」
ひさ江の心配も、
今年の夏頃から、夜の辻で人が襲われる事件が起こっている。
襲われた者はいずれも絶命している。しかも、死体が異様であった。
鋭利な凶器で無茶苦茶に腹を割かれ、内臓がごっそり抉られたように消えている。
そのせいで現場は凄惨を極め、海千山千の御用聞きでさえ思わず吐き気を催す程だと言う。
しかも不思議なことに――
この凄惨な殺人が行われるのは、決まって満月の夜なのであった。
あやかしが満月に誘われて辻に立ち、通りかかる人の生き胆を喰らっていると
「あやかしなどという
将夜は、破顔した。ひさ江が何を案じているかわかったからだ。
ひさ江は、将夜が不行跡を理由に義絶でもされるのではないかと心配しているのだ。
「すまん。妹に心配ばかりかける悪い兄だな、おれは」
「そんな、悪い兄上だなどと……。ひさ江は小兄様のことがだい――」
うっかり何か口走りかけたひさ江は、何故か耳まで赤くなって狼狽している。
ただ、将夜の方はそんな妹の様子のおかしさには一向気づかぬらしく、鬢のあたりをぽりぽり掻きながら、
「――あやまりついでに、ひとつ頼みたいのだが」
と声を潜めた。
「え」
何事かとひさ江が目を円くする。
「その、まことに申し難いのだが、少し用立ててもらえぬだろうか……これを」
将夜の親指と人差し指が、〈○〉の形を描いた。
ひさ江は傷ついた表情で、固く唇を噛む。
しかし、相手が雨に濡れそぼった仔犬の如き風情で肩を竦めているのを見ると、この心やさしい妹は表情を緩め、ほっと小さく息を吐くのだった。